No.2

★簡単には、言い表わせないほど、たくさんのことを感じさせ、考えさせ、そして思い出させ、連想させてくれました。
 
 1つには、私の母と同世代(井筒さんの方が少しお姉さんですが)、同じ時代を生きてきたということ、そして、私も、そうした母や祖母の体験を多かれ少なかれ聞いて育った世代なので、井筒さんの生きざまをある程度感じ取ることができます。私のかんがえ方の原点というものも、このことが大きく影響していると思うので、何か、探していたものが見つかったような、懐かしいものに出会えたような親近感を感じました。(もちろん、わたしの故郷は暖かい気候の千葉県で、井筒さんのご苦労にはくらぶべくもない母、祖母ではありますが。) いずれにしても越前というと、水上勉の小説を思い浮かべました。

 2つめには、感心し感動したのは、多くの戦争体験者が、自分の悲惨な経験は語ることがあっても、そこには被害者意識はあっても、加害者的だった面や、否定的な面は故意にか、無意識にか、覆い隠し、否定さえすることが多いのに、井筒さんの事実に向き合う強さ、聡明さです。

 3つめには、井筒さんの満州での体験に出てくる風景が、私が少し学んできたもんごると重なり合ってきました。機会があれば、満州での暮らしぶり、特に、地元の人たち、漢人やモンゴル人や満州人たちがどのように暮らしていたのか、混住していたのか、住み分けていたのかとか、お聞きしたいなあと思いました。

 そして、陽子さんが、井筒さんのお仕事を手伝っていらっしゃること、とてもすごいなあと思いました。親子としてだけでなく、人間として引き継ぐべきことをしている、と思います。
                                 空野典子
★何から書いてよいのかわかりません。 読むのがとても辛かったのですが、 しっかり読んで受け止めたいと思いました。

 幼い頃からことあるごとに 戦争について学んできたつもりでしたが 子どもを授かって初めてなぜ戦争をしてはいけないか本当に分かったような気がします。

 そんな矢先、井筒さんの手記を知り、
目を背けたくなるような史実に直面しました。
 “戦争はいけないこと”と漠然とすりこまれてはきましたが、具体的に戦争で何があったかは知りませんでした。 どんなことが起こったのか私たちは知るべきであり、
子どもたちに伝えていかなければならないと思いました。

 私には今、1歳半になる息子がいます。 清美さんのことを読むと胸が締めつけられます。

 日々育児に追われ、「大変だ」などと言っていますが、 井筒さんの手記を読むと、
今の私には嘆くことなどひとつもないと思います。

 私の父方の祖父は終戦の年の5月にフィリピンで戦病死し、母方の祖父母は終戦の年に当時1歳の母を連れて満州から引き揚げてきました。しかし私はこの3人の苦労をまったく知らないし、知ろうともしなかったし、その心情を想像することもありませんでした。親になって初めて、妻子を残して遠い南の島で死んでいかなければならなかった祖父の気持ち、幼子を連れて必死で引き揚げてきた祖父母の苦労を考えるようになりました。しかしすでにこの世に3人はおらず、何も聞けないままです。

 戦争中に人々が体験したこと、日本は何をしたのかも含めて、とても知りたいと思います。

 今頃になって、“平和”のありがたさが分かってきました。 毎日無事に過ごせることがどんなにありがたいことか。 一生わからずにいるよりましだと思って これから自分が何をすべきか真剣に考え、 世のため、人のために何かしていけたらなあと思っています。
                               28歳、主婦

★ まだ貧しかった日本 戦争のるつぼの中
  必死に生き抜いたすざましい程の生き方です

  感激で涙なしでは見られませんでした
  私達はのどかに平和を謳歌してますがその
  先の方々のご苦労を思い知らされます            

  降りかかった運命を甘んじて受け愚痴らず
  ご自分の判断でたくましく生きぬいた精神力
  何事も人の所為にせずあるがままに受け

  生き何も無かったように平然と穏やかに
  人を許し世を許し仏さまのように大らかな心

  人々の小さな事柄悩み「それでも良いのよ」と
  おっしゃって下さいます。すべてを超越して
  微笑んで過ごす貴女に乾杯!します

  又ゆっくりと 読み返したいと存じます
  お元気でお過ごし下さいませ ごきげんよう
                               紫

★私は、旧北朝鮮で生まれ育ち、戦後引揚げて来た者でございます。それは、北朝鮮と旧満州といっていました今の中国東北地方との国境を流れる、鴨緑江の上流部にあります楚山という片田舎の町です。そこは、人口1万人弱の町で、日本人は300人くらい住んでいました。

 私は、昭和16年に父がそこから転勤し、終戦の時には黄海に沿った海に近い「鉄山」と云うところで終戦を迎えたのです。終戦後父がソ連軍に連行され(結果的に旧満州の「延吉」と云うところで翌年早く病死していた事を帰国後、しばらくして知人に伝えてもらいました。)母親と妹二人の弟と、5人で収容所生活をしているうちに、末の弟と母親が病に倒れ亡くなり弟妹二人を連れて3名で帰国したのです。
 
 前後しますが、私は終戦時は平壌、今の北朝鮮の首都ピョンヤンの学校に行っていました。引揚後、色々なことがありましたが、あれから60年近く、弟妹ともにどうにか一人前の生活をして過してきました。弟などは、私よりも10才も若いに拘わらず、既に引退して『毎日が日曜日』の生活を送っています。

 昭和40年代のはじめに、私が生まれた「楚山」の町に暮らしたことのある方が計画され、「楚山会」と云うのを結成されて私にも参加するようにと声がかかりました。・・・(中略)・・・私が引揚前に抑留生活をしておりました鉄山には、当時の満州からの避難民の方が7〜8組も逃走中に見付かって我々の収容所に連れてこられていました。満鉄の方、満州電電の女性達、一般市民などのほか明らかに憲兵隊と思われる1組もおられましたが、皆助け合いながら一緒に帰りました。しかし、色々の事情もあったことでしょう、満鉄の方および建国大学生の方たちを除き、その後の消息は判りません。北朝鮮から、38度線を越えて開城(その頃は南朝鮮でした。朝鮮動乱後に北側に移管されたのでしょうか?)の収容所へたどりつくまでの間では、少年開拓団の方たちもおられ、その中の1組に瀕死の病人を3名の友人が、柳行李を駕籠の代りにして交代で担いで歩いていましたが、こちらも弟妹を連れていて人のこと所ではなかったのですが、その友情に感心したものでした。

 引き揚げて日本に帰国してからも、今から考えますと良く生き延びてこられたと思うようなことが続きましたが、人の情にも恵まれ、自分の努力もあってどうにか黄昏を迎えようとしているところです。私は未だ現役で勤めていますが、これもそろそろと言うところでしょうか。出来るだけ現役のままで最後を迎えたいとは思いますが、こればかりは自分で勝手に決めるわけにはいかないと思います。

 井筒様のご活躍を励みにしまして、この「楚山会」がもう少し続けられますように頑張りたいと思っています。

                                  石井 憲郎

★貴重な記録を是非後世に残すためにも、がんぱってお書き下さい。心より期待申し上げております。

 歌もすばらしく、実感のこもったものだと思います。たまたま倉敷で和紙を作っておられる丹下哲夫さんという方と親しくさせて頂いており、和紙作りの大変さ、またそれだからこそすばらしい紙が出来ることを知りました。井筒さんが和紙の里でお生まれになり、その苦しい体験がその後の人生に耐える力を与え、すばらしい業績をお残しになったのだろうと思っております。

 どうぞお体を大切にお励み下さい。

          有限会社オフィス・コシイシ  輿石豊伸
                 =えんじゅ=http://www.enju.co.jp


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