読者の感想 NO.10

 素適な本でした。内容が内容だけに、読み易く書くのに、ずいぶん苦労されたと思いますが、なかなかのものでした。

 私個人が、最も感銘を受けたのは下記の件り(P- 165頁)です。
 『人間は極限状態になったら自分の事しか考えられない。(略)私もそうで
 あった、と、改めて反省する』

 私は、何かと「動物行動学」的に考える人間ですから、母上の行動は当然だと思っています。だからこそ生き残れたのですし、貴女を産む事が出来たのです。人類は様々な極限状態の中を潜り抜けて今日に至っています。貴女に限らず、私たちは皆、そういう人達の子孫なのです。哀しい事ですが人間である以上仕方がない事です。

 少々、都合の悪い事は書かない…程度なら、何ら 問題ありません。しかし、自慢たらたら過去を正当化し 美化し、英雄的に飾り立てる人たちが何と多い事か。何しろ死人に口無しですから、都合のいいストーリーが作れます。その点、母上は偉い。

 観音像を建てて供養する気持ちは解らぬでもありませんが、母上のように本を書き、植民地支配や戦争、人間の愚かさを赤裸々に訴える事の方が、どれほど大切かと言うことを、私は痛感しています。

 もう一ヶ所(P-129)、…これは、ガックリ来たところですが…
 『あなたは無事帰国しているのに、なぜ坂根先生一家は自決しなければ
 ならなかったのですか。なぜ、それを見ながら止めることができなかった
 のですか。』

 何たる浅はかな連中であることか。世間知らずも エエトコ ですわ。
 『戦争は、またぞろ繰り返されるのではないか』とすら思いました。

 極限状態に対する想像力のない輩が何と大勢居ることか。こんな連中こそが、何の痛みもなく、他人を戦場に送り出すのでしょう。

 極限状態での動物行動に私が目覚めたのは、七〇年安保の頃のことです。連合赤軍が榛名山に立てこもったとき、閉鎖された極限状態の中で淘汰殺人が発生しました。この状況の中で、犠牲者と加害者と生き残り組との関わり、プロセスから、気付いたことです。書くと長くなるのでやめておきますが…。

 母上は、生物学的個体として考えても、エリート中のエリートです。私は
1955年 農学部林学科でエリートという言葉に出会いました。「精鋭樹」のことでした。樹林の中からエリートを探し出し、その樹から、種子や接木苗を採るのです。

 今は、いろんなところで「エリート」という言葉が使われるようになり妙な気分ですが、母上はあらゆる角度から検討して「精鋭樹」です。

 新谷さんの御努力で、「エリート」が元気で長生きされるよう 願っているオッサンが、大阪に居るということを、お伝え下さい。
 有難う。いい本を読ませて頂きました。

                       上田博章
                    http://homepage3.nifty.com/wedd/
 はじめまして。ホームページ拝見いたしました。つらい体験をされたあとのお写真の笑顔にすこしこころ安らぐ思いが致しました。

 私は昭和17年3月9日に奉天で生まれました。ソ連侵攻当時は現地応召された父の連隊のあるハイラルに住んでいたようです。物心つく前で当時のことは記憶しておりません。5歳と2歳上の姉たちは少し覚えているようです。父はシベリヤ抑留後、昭和24年に帰国しました。わたしたちは昭和21年8月に舞鶴に着きました。収容所めぐりの途中のハルピンで1歳だった妹は栄養失調のため「虫のようにコロッと(姉のことば)」ある朝亡くなっていたそうです。

 両親とも戦争のことは口にしなかったので忘れようと努力しているのかと思っておりました。が、亡くなる少し前一緒に住んでいた姉に父は「戦争は大変だったんだよ」と言い、母は子供を亡くしたあと自分は一生幸福になるまいと心にきめていたといったそうです。戦後55年も経った後でした。母はヒステリックでよく怒られていましたが母の気持ちをはじめて知って衝撃を受けました。

 その後戦争中の本を次々と読み関東軍去ったあとに残されたわたしたちのことを知りました。あの混乱の中、幼い四人のこどもを連れての母と死んでしまった妹を思うと涙があふれます。日本中におなじ思いの方はたくさんいらっしゃると思うのですがインターネット上でしかお知り合いになれません。

長い文をお読みいただきありがとうございました。

                                   埼玉県  下村 
 満州国についてインターネットで検索し、満州国からの引き揚げについて詳しく書かれていたので読ませていただきました。

 少し我が家系について説明しますと、祖祖父は医者だったのですが日清戦争に軍医として参戦し負傷して亡くなり、祖父は会社経営してたのですが、世界恐慌で倒産し借金返済の為財産をほとんど売り、その後別の事業で成功しそのお金持って満州に渡り良い暮らししてたのが敗戦で全て失い、11人の子供の半数と祖母が栄養失調などで亡くなり満州に埋めてきたそうです。戦後は貧しい暮らしで父は中学からアルバイトしながら通い、交通費がないので進学校や大学は行けず高卒で就職しまた。この話は私が成人してから聞いたのですが、こうしてみますとこの100年の日本の戦争の歴史に振り回され、我が家系は本人の努力が報われずにきてしまいました。

 私は幸い平和で豊かな時代に生まれ大学まで行かせてもらい感謝しております。今は働きながら超難関資格の勉強をしてますが、時代や戦争の為に命を亡くしたり、努力が報われなかった先祖の為にも必ず成功して、いつか旧満州国を訪れ、中国の子供達に何か寄付したいと考えております。(以前テレビで会社の社長さんが自分が生まれた旧満州国のハルビンの子供達に会社の売上から、学校やパソコンを寄付してるのを見て感動したので)貴重な満州体験記を読ませて頂き感謝しております。
                          kazuya satou
 私は昭和18年、撫順生まれの、現在60歳の男性です。農家の次男で
あった父が単身で渡満し、現地で知り合った母と結婚、そして終戦を迎え、翌年10月、私が2歳の時に母が病死し、その直後に、3歳上の姉と3人で引き揚げてまいりました。

 私が幼少の頃、父の会話の大半は、満州時代の体験談であり、耳蛸に
なるぐらい聞かされるため、関心の無い私には、それが苦痛で話をさえぎ
ったり、避けたことがよくありました。

 何度耳にしても、馬耳東風的に接していたことで、肝心の父の渡満の目
的とその思い・仕事の内容・ソ連宣戦布告時の心境と直後の行動・またそ
の時の国の対応・引揚げ時のルートと食料事情・帰港時の本国の受け入
れ実態・帰郷直後の生活等につき、正確な記憶として何ら残っていません
でした。

 その父も昨年17回忌を終え、私も退職し、子供達も独立して夫婦だけの日々を送っていますが、5〜6年前あたりから前述の疑問点を知りたい欲求が日増しに強くなりつつありました。

 ある日、そうだインターネットで<満州>を検索すれば、情報が得られる
のではと思い立ち、実行して見た結果、予想以上の満州関連情報が満載
されているのを目の当たりにし、満州に係わった当事者、又満州問題を通
じ、平和希求への問題意識を持つ人達の多さに驚嘆した次第です。
 
 数多い関連資料の中に、井筒様の<生かされて生き万緑の中に老ゆ>
が目に入り、数ページ読まさせて戴いたところ、驚愕の事実を、生々しく、
臨場感溢れる表現で綴られており、即座に興味を抱き、無我夢中になって
一挙に読ませて戴いた次第です。

 そこで、私同様、このことに関心を持っている松阪市在住の実姉に送ってやろうと思い、印刷し送付すると同時に、昔から歴史に関心のある会社の先輩にもメールで紹介しました。時同じくして、丁度1ケ月前、その姉から<朱夏・・宮尾登美子>を紹介され、読み終え感動した直後でもあったのです。既にご承知と思いますが、作者の宮尾さんは17歳で夫君と渡満し、九死に一生の辛苦を経て昭和21年に帰郷された実体験を、ご本にされた方でありますので、正に井筒様とよく似たご体験の方であるなと思いました。

 読後、井筒様の現地での生々しい実態が、浮き彫りされており、私の知りたい事項の大半を満たして呉れたのであります。且つ、お亡くなりになった子供さんへの母親としての強い愛情、そして艱難辛苦を乗り越えられた強固な意志、係る下でも俳句に、ご興味と勉学に励まれる豊かな心等、今後の私の余生に勇気と指針を与えて下さったことを感謝すると共に、敬服させて戴いた次第であります。

 読後の気持ちとして、私自身、戦争の無い平和な世界の実現目指して、
少しでも何かのお役に立つべく日々思考し、研鑚努力すべきとの心境に至
りました。

 この様な機会をお与え下さり、有難うございました。
 井筒様のご健勝と、更なるご活躍を祈念しお礼申し上げます。 

                            田牧 隆一
 


NO1 NO2 NO3 NO4  NO5 NO6 

NO7 NO8 NO9 NO11 NO12 NO13 NO14