早速、殆どを読ませて貰いました。
敗戦を味わった者にしか判らない事ばかりです。併し、今尚、元気に
生きていられる事は最高の幸せでしょう。
残念ながら、私には終戦と言う言葉は使えません、敗戦です。
避難の途中、何人かの幼児を畑に葬るのが、私ら若いものの役目でしたが、当時のことが今尚鮮烈に記憶に有ります。
ご健康お祈りいたします。まだまだ、お互い頑張りましょう。
井筒さんのお名前は何処かで見たことがあると思って古い本を見ましたら、読売新聞の《満蒙開拓団》に出ていました。
西村 利満
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はじめまして。
半年前より幾度も幾度も読ませていただきました。その度、涙腺がゆるむのを押さえようもありませんでした。
日本の女性はかくもたくましいのだ、かくも愛情深いのだという確信を得たHPです。
私は満州で生まれ敗戦時は満3歳になったばかりでしたが、避難の日々の暮らしの中で死の一歩手前までゆきました。助かったのは頭を坊主に刈りあげ男装して、ソ連兵を恐れずに病院通いしてくれた母の愛情のお陰です。その母が93歳ですが元気に暮らしておりますので、母の日の前の夜にネットを借りて実家の引き揚げ物語を公開させていただきました。
母(または兄か姉)本人が書けばもっと詳しい事実に近いものになるでしょうが、反面客観的な見方はできません。
私としては、当時新京の街にたどり着いたひどい姿の難民たちのことにも少しだけ触れたいと思って書きました。一番気の毒なのは満州の荒野、難民収容所で死んでいった老人,母子達だと思います。
彼らは自分たちが何故死なねばならないのか分からなかったでしょう。理解していたと思われますか?
下記の物語は私の自分史のパート1でもあります。
そういう意味でも井筒様の自分史は参考にさせていただきたく考えております。
陽子さん、HP開設してくださって本当にありがとうございました。
袴田 佑子(Yuko Hakamata)
『ある家族の満州引き揚げ物語』−ひまわりの歌−
http://www2.accsnet.ne.jp/~yuko88/
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早速読ませて頂きましたが、内容、文章共に感動いたしました。
ご本から拝察するところ、十分な教育も受けておられないのに、文章力、表現力の確かさに驚きました。
第2章「彷徨」の「帰国」の中の文章に、
(母)「きく一人か、すさをは、赤ん坊は」
せっかちに聞いた。私の背に負うている清美の嵩が低くて、気づかなかったらしい。
この”嵩が低くて”という言葉から、清美さんのやせ細った身体が目に見えてくるように思いました。そして、翌日訪ねた夫の実家が近所に言ったという次の言葉は、親切にしてくれた中国人に引き替え、これが苦難の果てに郷里に戻った嫁に言う言葉だろうかと、はらわたの煮える思いがしました。
「息子が帰ってこんのに、嫁が死にかかったような子お連れて帰ってきたんやでのお。どもならんげのお」
失った清美さんの代わりに新谷様始め、お子様に恵まれ、新谷様のご助力でこのような立派な出版をなされ、何物にも代えられない追善供養が出来た事をお喜び申し上げます。女性に二度とこういう経験をさせてはいけないと痛感しました。
すずきぜんや
「ぜんやの広場」
http://www.hpmix.com/home/zenya/homepage2/
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すぐに封を開け、やりかけの家事もそっちのけに、吸い込まれるように、一気に読んでしまったものです。それ位、読む者を引きつける内容、そして文章の「力」がある本だと思います。
まずは、「書いて下さり、本当に本当に有難うございます。」と、お母様にお伝え下さい。
これは、「戦争の歴史の真実」を伝えるだけに留まらない「日本の女性の歴史の真実」を伝えるものでもあり、「母子の絆とは何か」を考えさせてくれるものでもあります。
だから、現代の女性と子供達に、なんとしても、広く、できるだけたくさんの人に、ああ、どうしたら、読んでもらえるでしょう。私は、すでにそういうことを、考えはじめています。
虐待をしながら、されながら、それでも、母と子の絆というものは、やはり切っても切れないものなのですね。汽車を追い掛けホームを走るお母さんと、「おっかあ、おっかあ。」と心で叫ぶ、娘。
「清美」ちゃんを、新谷さんの事だと、勘違いしながら読み進んでいた私が、どこかで(あれ?清美というお名前ではなかったような)と思いながらも、封筒の差出人の名前を確かめる事をしなかったのは、それをする間も惜しくなる位、本から目が離せなくなっていたのと、どこかで、この可愛い清美ちゃんの悲しい最後を予感していたからかも知れません。この「清美ちゃん」が、私にメールや本を送って下さっているのだと思いたかったのかも知れません。
この苦しい惨状を読み進んでいるうち、重たく苦しくなってくる私の心も、「清美ちゃん」が、あどけない笑顔で、救ってくれていました。
そんな清美ちゃんが、まさか?と、一番辛いシーン、その一行を目にした時、私の息も、止まってしまいました。
「悲しみも怒りも湧かず、涙も出はしなかった。」
その心境が、私にも、わかる気がしました。
思い出すのは、苦しい苦しい事ですね。忘れたいというのは、人間の「生きようとする本能」からくる感情ですね。時間がそれを和らげてくれたのでしょうか。
どうか、どうか、長生きして下さい。
戦争が決して起こる事はないだろうと思えるような「平和な世界」を見届けて下さいね。
私は、平塚らいてうが「青鞜」の創刊の辞として掲げた「元始、女性は太陽だった」という言葉の意味を、探り当てたいと思っているうち、貴HPに行き着いたのです。
そして、「見つけた!!」と思いました。井筒紀久枝さん、大陸の花嫁は、正に「太陽」の人である!!と、思いました。
その生命力。たくましさ。傷つけられても、虐げられても懸命に、子供達に輝き続ける、生き続けようとするエネルギー、それは「太陽」のエネルギーですね。
装丁の絵は、それを見事に表現していますね。鍬を振り上げる大陸の花嫁の向こうに走る馬と雄大なる山。そこに真っ赤な夕日が沈んでいく。この太陽こそ紀久枝おばあちゃんですね。
それが、日本の女性なのですね。
李太々さんと紀久枝おばあちゃんが、
「お互い愛児を大切に育てましょう」と握手を交わした
チチハルにも、満州の真っ赤な夕日が映えていたのですね。
日本のお母さんも中国のお母さんも、想いは同じなのですね。
それが、母というものなのですね。
紀久枝おばあちゃん、書いて下さり、本当にありがとう。
たくさんの人に、読んで欲しいですね。知って欲しいですね。
このお話は、現代の迷える人の心を救うものになります。
なぜなら、これは「戦争」のお話というより、日本の「母」の、「女」の、「真実の愛」を教えるバイブルだからです。
.from
菫屋繭民(すみれやまゆみん)
http://www.mayumin.com
sumire@mayumin.com
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