井筒さま
7月に奉天から新京、チチハル、ハイラル、満州里へ母と弟の供養に行こうと思い、私が生まれたチチハルについて知りたくて偶然、あなたさまのページを開き、胸を詰まらせながら読みました。
私は昭和17年に生まれ、父は現地招集で兵隊に取られたままシベリア抑留。母と弟は逃避行中に亡くなりました。新京で死んでいる母の傍らで結核になっている私を中国人に発見されます。そして子どものいない金持ちの日本人に渡され命を救われました。(一昨日、91歳になったその老母に会って来ました)
本土に帰ってから亡母の実家に渡され、数年後父がシベリアから帰還します。引き取られますが私には知らない人です。父が再婚した継母とも添えないまま、物心とも貧しく悩み多い青少年時代を過ごします。
私の人生は母と弟の人生でもあり、このような体験が私の人格や考え方を形成し、下記のホームページの活動をするようになりました。
4歳までの脳裏に刻み込んだ多くの記憶と老母の語り、あなたさまのチチハル再訪での体験を教訓にしながら、「満州」に行ってこようと思います。
2004.6.22
新谷陽子さま
短歌とともに本文でもお母さまの誠実で冷静なお人柄が表れており、生死の狭間で生き延びてきた精神力を感じました。
私たちは都市部で生活していたためにお母さまのような壮絶な逃避行ではなかったようですが、91才の老母の不確かな話と付け合せると、時期的にはほとんど同じころに無蓋列車でコロ島に着き、佐世保経由で帰ってきているようです。
私は残留孤児のニュースを耳にしたり体験談を読んだり「大地の子」を見るたびに自分と母のことを詳しく知りたい衝動がこみ上げてきたのですが、墓参りにも行く気にもなれないわずらわしく刺々しい私を巡る周囲の人たちの壁を前に、行動を抑えてきました。
そして「不確かな記憶でもそれが自分の人生の支えとなっているのなら、充分意義がある。」このように思いながら心のなかの母と弟と語い、誇り高い人生を送ることを誓い、幾つかの本や雑誌、マスコミに自分の記憶のなかにある生い立ちを語ってきました。
ですから今回の満州行きは母と弟、私、そして私を支えてきた妻との、過去と現在をつなぐ心の語らいのためです。二人には自分の命が無駄でなかったことを知ってもらいたいのです。そして私は亡き二人が私を支えているからこそ、今日があることを感謝したいのです。母と弟と別れて間もなく60年。夫婦二人での訪問のチャンスが訪れたのはそのためだと思っています。
2004.6.28
新谷さま
7月10日から9日間、わが故郷「満州」の地に行ってきました。
母の遺骨を焼いたと思われる新京の公園の前に佇み、「彰夫!死ぬな!死ぬな!生きろ!生きろ!」と、母の傍らに寝ている私に何度も言い聞かせながら息を引き取った60年近く前の母の姿を見て、感涙で咽びました。
やがて母に「私はお前の心のなかでお前とともにずっと生きてきたんだよ」と穏やかな声で語りかけられ、やっと涙が止まります。
住んでいた官舎は3年前に取り壊されていましたが、引き取られて住んでいたと思われる児玉公園の前にある当時の唯一の建物に入ってみますと、何となく面影があります。この建物も2年後には取り壊されるということです。その建物から目の先の関東軍司令部の小門と、木々で被われた広い坂道は記憶そのものでした。60年前の司令部のなかから気合とともに竹刀の音が聞こえてきます。
ハルピンからチチハルへの車中では姉妹都市宇都宮市の使節団の方々と出会いました。生まれたチチハルの記憶はありませんが、文化大革命によって日本の建造物はほとんど壊されていました。しかし通訳と運転手の方は歌を歌ってくれたり嫩江の小石を記念にくれたり、思い出探しにとても親切にされ、故郷に帰ってきた思いになりました。涙と固い握手でお別れです。
次に井筒さんが入植した大興安嶺を通り過ぎホロンバイル草原のなかのハイラル、満州里に行きます。関東軍や日本の開拓民がソ連との戦いで散った地下要塞などとともに、農家の庭に植えられているインゲン、ジャガイモ、茄子、人参などの野菜、日本人の名前をなぞった表札など、日本人の足跡が残っていました。また崩壊したソ連のコインとともに戦時中に日本人が使った明治30年代の偽一円銀貨が売られています。
203高地からはじまってソ連抑留の中ロ国境まで行き、中国大陸で日本人が何をして何を残したのかを知る旅でした。また大連からハルピンまで11時間はとうもろこし畑、ハルピンからチチハルまで3時間は草の生い茂る草原と油田、そして満州里まで11時間の旅では大興安嶺の深い原野を越すと果てしない草原と砂漠。このような旧満鉄の車窓から眺める景色や連日35度以上の夏の気温を肌で味わいながら、マイナス40度のチチハルで生まれ、どうにか生き延びられた私の人生の必然性を感じる旅でもありました。
2004.10.9