読者の感想 NO.11

 「大陸の花嫁」を感動と驚きと共に拝読しました。事情を知らない世代にとっては、「これは『大地の子』的小説では?」と錯覚するかもしれませんね。

 我が家も敗戦後引き揚げてきましたが、小さい時のこと、親からは「寒かった」、「苦労した」、というばかりで左程茶の間の話題にもならず(もっとも耳に入らなかっただけかも)、長じて残留孤児の肉親探しが始まった頃、再三聞くも、「思い出したくない」の一点張りで詳しいことは分からず仕舞い、それでも「満蒙開拓団の人たちの苦労に比べれば・・・」ということは聞いておりました。この残留孤児は私の年齢前後の人たちが多く、当時一人一人の写真など報道されるたびに、自分の写真ものっているのでは、と妙な幻覚にとらわれたことがあります。(ご本の中で紹介されている残留孤児探しに貢献された山本住職のことについては、いつでしたか過日NHK・TVの「プロジェクトX」番組ー確か再放送ーで放映されていました。)

 私自身は東安市(今の町名は不明)に生まれ、以後父の勤務の関係で、新京(当時)、チチハル、奉天(当時)、ハルビンに転居したようです。ハルビンで会社の寮にいたときのこと、すでにその時は敗戦直後であったはず、ドアの隙間から覗きましたら、ソ連兵2人が肩に銃を下げて通路の入り口に立って話していたのを覚えております。恐怖と共に、ドアのノブを開かないように姉か兄と一緒に握っておりました(3歳〜4歳)。コロ島から門司に入港、一時姫路の陸軍兵舎に収容され(姫路城近くにあって、城に登った記憶あり)故郷の岡山県の津山に帰還しました(ボロボロになった当時の引き揚げ証明書が私の存在証明になっています)。

 引き揚げ後、父母は離婚(在満時代の敗戦後の諍いが因か?)、母を残して父と共に倉敷に転居、以来高校時代まで暮らしました。

 四、五年前旧満州を旅行、大連、ハルビン、チャムス、長春に行き、往時に思いを馳せました長春で今は中学校となっている父の勤め先の建物を訪ねましたら、正面の壁に「偽満州国○○所在地」の大きなプレートがはられておりました。

 中国はどこの抗日戦争記念館に行っても、『前事不忘・後事之師』の額が掲げられております。以後座右の銘にしているこの言葉は「過去のことは水に流してお互いこれから仲良くしよう」と善意で思うわれわれ日本人にとって、真の日中友好の意味を考えさせられます。

 ご本が、若い世代の人たちにも読み継がれ、平和をつくるための生きた教科書になることを願っています。ご自愛をお祈りいたします。

                            妹尾 茂治

 一気には読めませんでした。読んでは考え、また読んで考え、なかなか先へ進みませんでした。

満州国崩壊の中の「紛れ込んだ現地人の牛や馬を返さなかった」「作物を盗んだ子供を袋詰めにした」やはりなあ−と思いました。東洋平和のため王道楽土を築くと言う大義名分を良くも考え出したものですね。

随所に出てくる、指揮者や長と名の付く人達の責任、判断、思いやりによる運命の別れ道に、粛然としたものを感じます。為政者が常に襟を正して貰わないと民は荒野を彷徨うことになるのでしょう。
選挙の時には良く良く考えて見なくてはと思います。

「人間は極限状態になったら自分のことしか考えられない」と言う言葉も「この歳になったからこそ、やっと書けたのだ」も本当ですね。

「雪の荒野よ生まるる子の父みな兵隊」、子供が産まれても素直に喜べなかったでしょうね。

作者は今、介護を必要としているとか、苦痛の少ないことを祈っております。  再見。
                余生老人
                http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawa/
 インターネット上の大連関連サイトから、リンク伝いに井筒さんのWebsite《生かされて生き万緑の中に老ゆ》を昨年秋に訪問し長大な体験記を一気に読破、壮絶な記述に圧倒されました。

 斯くも感動的な長編紀行文の編集に上梓、有難う御座います。

 また先日、このHPを再訪したところ、当該著述が岩波書店の現代文庫に収録発行されているとの由、早速、最寄の公共図書館より借出し、これも一読しました。

 Web 上の読書は、自宅に居ながらにして気軽に読める利点はあるのですが、私の様な50歳過ぎの世代には、実体のない電子記号の羅列を読んでいるだけに思われ、どうも「読書した」満足感が乏しいのです。

 それに、ページを捲って往きつ戻りつすれば、前後の記述を確認し念を入れて読めますので、これも大きな利点です。
 文書化に際しての編集作業、お疲れ様です。

 私は1951年の生まれで、所謂「戦争を知らない子供達」の一人ですが、縁あって、中国帰還者連絡会の人々から、様々な体験談を聴く機会に恵まれ、井筒さんや、関連 Websites 上で披瀝されている各種体験談の隙間を埋める様な話も聴いており、アノ時代の全体像を自分なりに復元する上で、とても参考になりました。
 どうも有難う御座います。

 娘さんが、代筆----と云いますか、代理----として、情報の更新をなさっていらっしゃるとの由、恵まれた環境にいらっしゃる訳ですね。
 また、折をみて訪問します。本日は、お礼かたがた、訪問の挨拶までにて、失礼します。
 それでは、お元気で。           2004/02/25(水曜日)

     春近き陽気な日も暮れて

                         戦争を知らない子供(匿名)

 

 井筒さま

   7月に奉天から新京、チチハル、ハイラル、満州里へ母と弟の供養に行こうと思い、私が生まれたチチハルについて知りたくて偶然、あなたさまのページを開き、胸を詰まらせながら読みました。

  私は昭和17年に生まれ、父は現地招集で兵隊に取られたままシベリア抑留。母と弟は逃避行中に亡くなりました。新京で死んでいる母の傍らで結核になっている私を中国人に発見されます。そして子どものいない金持ちの日本人に渡され命を救われました。(一昨日、91歳になったその老母に会って来ました)

  本土に帰ってから亡母の実家に渡され、数年後父がシベリアから帰還します。引き取られますが私には知らない人です。父が再婚した継母とも添えないまま、物心とも貧しく悩み多い青少年時代を過ごします。

  私の人生は母と弟の人生でもあり、このような体験が私の人格や考え方を形成し、下記のホームページの活動をするようになりました。

  4歳までの脳裏に刻み込んだ多くの記憶と老母の語り、あなたさまのチチハル再訪での体験を教訓にしながら、「満州」に行ってこようと思います。

                                                         2004.6.22

新谷陽子さま

  短歌とともに本文でもお母さまの誠実で冷静なお人柄が表れており、生死の狭間で生き延びてきた精神力を感じました。

  私たちは都市部で生活していたためにお母さまのような壮絶な逃避行ではなかったようですが、91才の老母の不確かな話と付け合せると、時期的にはほとんど同じころに無蓋列車でコロ島に着き、佐世保経由で帰ってきているようです。

  私は残留孤児のニュースを耳にしたり体験談を読んだり「大地の子」を見るたびに自分と母のことを詳しく知りたい衝動がこみ上げてきたのですが、墓参りにも行く気にもなれないわずらわしく刺々しい私を巡る周囲の人たちの壁を前に、行動を抑えてきました。

  そして「不確かな記憶でもそれが自分の人生の支えとなっているのなら、充分意義がある。」このように思いながら心のなかの母と弟と語い、誇り高い人生を送ることを誓い、幾つかの本や雑誌、マスコミに自分の記憶のなかにある生い立ちを語ってきました。

  ですから今回の満州行きは母と弟、私、そして私を支えてきた妻との、過去と現在をつなぐ心の語らいのためです。二人には自分の命が無駄でなかったことを知ってもらいたいのです。そして私は亡き二人が私を支えているからこそ、今日があることを感謝したいのです。母と弟と別れて間もなく60年。夫婦二人での訪問のチャンスが訪れたのはそのためだと思っています。                                                  2004.6.28

 

 新谷さま

  7月10日から9日間、わが故郷「満州」の地に行ってきました。 

  母の遺骨を焼いたと思われる新京の公園の前に佇み、「彰夫!死ぬな!死ぬな!生きろ!生きろ!」と、母の傍らに寝ている私に何度も言い聞かせながら息を引き取った60年近く前の母の姿を見て、感涙で咽びました。

  やがて母に「私はお前の心のなかでお前とともにずっと生きてきたんだよ」と穏やかな声で語りかけられ、やっと涙が止まります。

  住んでいた官舎は3年前に取り壊されていましたが、引き取られて住んでいたと思われる児玉公園の前にある当時の唯一の建物に入ってみますと、何となく面影があります。この建物も2年後には取り壊されるということです。その建物から目の先の関東軍司令部の小門と、木々で被われた広い坂道は記憶そのものでした。60年前の司令部のなかから気合とともに竹刀の音が聞こえてきます。

  ハルピンからチチハルへの車中では姉妹都市宇都宮市の使節団の方々と出会いました。生まれたチチハルの記憶はありませんが、文化大革命によって日本の建造物はほとんど壊されていました。しかし通訳と運転手の方は歌を歌ってくれたり嫩江の小石を記念にくれたり、思い出探しにとても親切にされ、故郷に帰ってきた思いになりました。涙と固い握手でお別れです。

  次に井筒さんが入植した大興安嶺を通り過ぎホロンバイル草原のなかのハイラル、満州里に行きます。関東軍や日本の開拓民がソ連との戦いで散った地下要塞などとともに、農家の庭に植えられているインゲン、ジャガイモ、茄子、人参などの野菜、日本人の名前をなぞった表札など、日本人の足跡が残っていました。また崩壊したソ連のコインとともに戦時中に日本人が使った明治30年代の偽一円銀貨が売られています。

  203高地からはじまってソ連抑留の中ロ国境まで行き、中国大陸で日本人が何をして何を残したのかを知る旅でした。また大連からハルピンまで11時間はとうもろこし畑、ハルピンからチチハルまで3時間は草の生い茂る草原と油田、そして満州里まで11時間の旅では大興安嶺の深い原野を越すと果てしない草原と砂漠。このような旧満鉄の車窓から眺める景色や連日35度以上の夏の気温を肌で味わいながら、マイナス40度のチチハルで生まれ、どうにか生き延びられた私の人生の必然性を感じる旅でもありました。                                         2004.10.9

                                                          小磯彰夫
koiso-hiraken@nifty.com
http://homepage1.nifty.com/koiso-hiraken/index.html

 


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