紙漉きし頃  五十一句

 

 漉き初めや 昔ながらの 紙の里

寒の水 ひたひた足にて 楮(こうぞ)揉む

楮扱(こ)く 筵(むしろ)を膝に あてがひて

紙漉き習ふ 滴る水が 足袋に滲(し)む 

あかぎれに 紙漉く水の つきささり

あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く

冷たさを 確かめて紙 漉きはじむ

水水水 紙漉く冬の 八時間

冷たさや 見向きもせずに 紙を漉く

雪を来て 紙漉く紙の 白き中

紙漉くや 欠伸うつされ 風邪引きぬ

風邪引いて 紙をまぶしく 漉きにけり

雪来るか 紙漉く指の 股かゆし

紙漉くや 霜腫さきに 濡らしてより

紙漉く手 炉に乾かせば 創(きず)もゆる

胼(ひび)ぐすり 明日も紙漉く 手がいとし

幹のごとき 腕に霜腫 紙漉いて

紙を漉く 女ばかりへ すき間風

新雪の 日向へ日向へ 紙乾し出す

石炭が 雪ごと燃ゑて 紙乾く

紙を乾(ほ)す 煙たちゆく 雪の峡(たに)

灯をともす 漉き濡るる肘 透きとほり

垂るる一灯(いっとう) うるみどほしや 紙を漉く

漉工われ 寒き厠(かわや)に さぼりをり

漉工らに 喋べるたのしみ 囲炉裏燃ゆ

紙漉いて 越前雪の 川へドロ

紙漉くや こんな田舎に 嫁に来て

妊(みごも)りて 紙漉く乳房 冷々と

わが月日 紙漉く水に 温(ぬ)くさ通ふ

てのひらに 艶でて漉場 春めきぬ

紙漉いて 双手(もろて)もも色 花見どき

紙漉場 出て下駄春の 道濡らす

楮選る よその春闘 話題にし

機械音 絶えねば漉場 温(ぬ)くしと思ふ

春らしき 気配紙漉く 腰に感ず

楮選る 指にやさしや 春の水

緑陰に 水溢れしめ 楮選る

漉き濡れし 衣を脱ぎ捨つる 今日メーデー

早やじまひ して漉桁(けた)洗ふ 祭りかな

あねいもと 帯締め合ふや 紙祖(しそ)まつり

川涸れて ヘドロ漉場に 残る灯よ

紙漉きし 廃液ばかり 川涸れて

紙を乾す 紙と裸と 光りあふ

炎天と いゑど漉場は 濡れどほし

漉工らの 汗疹(あせも)見せ合ふ 手洗所

炎天下 来てありがたき わが漉場

ひぐらしや 病臥へ絶ゑぬ 漉場音

紙漉いて 爪のもも色 癒ゑたるよ

薬瓶に 菊挿し病後 紙を漉く

望の月 川をはさんで 漉場音

紙幣漉く われも貧しく 年暮るる

 

★ 私のふるさとは越前和紙の産地です。

  この地で生まれたものは宿命のように子供の頃から、何らかのかたちで製紙業に携わらなければなりませんでした。私も小学五、六年生の頃から、学校から帰るのを待ちかねたように、川に浸してある楮(こうぞ)を足で揉み、それを土間まで引きずってきて筵の上へ座り、包丁でその楮の黒皮を剥きとる仕事をさせられたものです。

  「女の子に学問はいらぬ。五箇(ごか)−現在の福井県今立町の中の大滝、不老、岩本、新在家、定友のこと−に生まれたら、いい紙漉きになるこっちゃ」どこの親も言うことは同じでした。

  私は小学校を卒えると、家の近所でもあり、五箇の中でも、とりわけ新しい美術紙を次々作り出す岩野製紙所へ入りました。特に身体の小さかった私が、大人と同じようにゴムの前掛の上へ白ネルの前掛を締め、大人の下駄を穿いて、紙の間に敷く布を濯いだり、ネリ(とろろ葵の根で、これを入れると紙の原質が水の中でむらなく滑らかになったり、紙の生地とか厚薄の加減をするために入れる粘液)を濾したりしました。手が切れるような冬の冷たさを、がまんしながら一生懸命大きな袋で濾しました。この濾しかたが悪いと、純白の紙に目が見えるか見えないかぐらいの黒点ができるので『紙漉きさん』に叱られました。

  早く紙が漉きたいと思っても身体の小さい私にはなかなか教えてもらえませんでした。

  そうして一年。見よう見まねで漸く小さい紙から襖紙の一枚ものまで漉くようになったのです。また、岩野製紙独特の縦九尺横七尺という大紙も漉きました。腕はどんな真冬でも肘の上までまくり上げて冷たい水の中へ突っ込んで漉くのです。

  これらが、有名な画家の注文された画紙であったり、国宝級の寺院の経本になったり、壁画の紙になるのでした。

  霜腫がくずれて、炎えるようにずきずき疼く手を包帯でぐるぐると巻いたまま、水の中へ突っ込んで漉きました。包帯の糸くずに紙汁が巻きついて玉になったものを、紙の中へ漉きこんで叱言を言われたり、特に霜腫のひどい私には冬は泣きながらの作業だったのです。

  こうした村人たちの最も楽しみだったのは、五月四、五日の紙祖岡太(おかもと)神社の祭礼と、十月十二、三日の大滝神社の秋祭でした。

  戦争が厳しくなると美術紙ばかりも漉いておられず、大蔵省管理の下に紙幣を漉くようになりました。一枚の紙から紙幣が八枚分とか十枚分とかがとれるものでしたが、その紙一枚の目方が四匁八分から五匁四分までなどの制限があり、紙の厚薄と透かしの出しぐあいなどがむずかしく、とても厳しいものでした。

  私は、そうした頃満州へ行ったのです。

  そして、引揚げてきて再び紙漉き生活に戻り、数年を過したのです。

 

ふるさとの岩野製紙工場

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