わが子が生きている間は、その子の父親の復員を待っていたが、その半年後に帰って来た夫を私は温かく迎えることは出来なかった。自分のわがままだと反省もしたが、私にしつこい夫のしぐさと、百姓ながら食糧難につけ込む貪欲な舅のやり方に、その家も夫も嫌でたまらなかった。

「辛抱してたら、後はお前のもんになる」

と母は言ったが、私は何も要らなかった。

 そうしてる間に、昭和二十三年六月二十八日の福井大震災だった。私は家の近くの田んぼで、除草していた。山は揺らぎ、苗を植えたばかりの田は波立ち、立っていられず畔にしがみついた。少し離れた田に舅と夫はいた。

「家へ入って建具をはずさんかァい」

 舅が大声で私に命じた。私の命より建具の方が大事な舅に命じられるまま、何回も揺れのくる家の中へ入ってきた。道路の向かい側は、将棋倒しに家が潰れたが、私が入って行った家は傾いただけだった。

 その年の秋、私自身はもちろん、周囲の人もさんざん悩ませた末、私たちは離婚した。

 再び私は、紙漉きに戻った。しかし、引き揚げ者で無一物の出戻り娘は、世間にも家族にも、肩身の狭い思いをしなければならなかった。妹は、満州時代の男とは別れて、間もなく婿養子を迎え、もう子どもまで出来ていた。

  これがわが家膝つき濯ぐ霜の石

  紙漉くや与うものなき乳房冷ゆ

  子の墓に隠れあう身よ法師蝉

  背後より西日きびしき世評に耐ゆ

 私は、こんな俳句を作って気持ちを発散させていたが、昭和二十八年、満州時代の友、大坂さん夫妻を頼って、神戸へ行った。

 義勇隊最初の応召者で、以来、音信不通だった大坂さんを、戦死されたものと思っていたが、私たちより先に復員しておられ、川崎重工に就職しておられた。満州で子どもを亡くし、失意の奥さんだったが、ご主人の元へ帰って行かれたのだった。狭い会社の寮に、帰国後生まれた子と三人で住んでおられた。

 そこへ私が居候すること、一年余。大坂さんは貧しい生活の中から嫌な顔もせず、私を置いてくださった。住み込みでしばらくは針灸科院へ勤めたが、親元代わりにさせていただいた。私の生涯で、このご夫妻も大の恩人である。

 そこで、現在の夫を知った。故郷で親しくなった俳句仲間のお母さんが、私のことを気にかけてくださり、復員後、結婚に失敗して、京都へ出ていった自分の甥を紹介してくださったのだった。

 昭和二十九年十二月、私たちは所帯を持った。京都市南区吉祥院の旧家の中二階に間借りした。夫は長距離トラックの助手で、月収一万五千円。家賃千五百円。二人の持ち金一万円ずつを出し合って、敷金を払い、日常生活用品を集めた。中二階は屋根裏同様で、頭がつかえてまともに立つことも出来なかった。

 そこで、長男の郁夫が生まれた。子どもを泣かせぬように同居者に気を遣い、常に背に負うて、狭い階段を、バケツに水を汲んで上がった。天井の梁に、何度赤ん坊の頭を打っつけたことだろう。家が欲しいと思った。

 三十一年七月、家主さんが、私たちと同郷の福井県出身だということを信じて、新しく建てたという、バラック建ての三軒長屋へ越して行った。そこで陽子が生まれた。陽子は、大声をあげてよく泣いた。

「泣く子は突き殺せ」と、怒鳴られた清美や、泣かせまいと、いつも私の背にくくりつけられて、梁に頭を打っつけていた郁夫を思うと、自分を主張出来る陽子は幸せだと思った。

 ところが家主は、三十所帯ほどの貸家とともに、そのバラックの敷地を抵当に、借金していたのだった。思わぬ所から明け渡しの督促状が届き、店子一同、家主へかけ合いに行った。とどのつまりは、店子がそれぞれ買い取ることになったが、敷地と建物の持ち主のちがうバラックに住む私たちは、途方にくれた。

 家が欲しかった。市営住宅を申し込みに二人の子を連れて、夏の日盛りや寒い冬の日に列に並んだが、何回行っても、当たらなかった。貧乏と不運は、いつまでも私につきまとった。

 私は京都へ来てから、和裁の内職をしていた。一端(いっぱし)の物が縫えるのならまだしも、既製品は数をこなさなければならない。この和裁も、娘時代に、裁縫女学院へ通っていた近所の同級生から、手ほどきを受けたお陰だった。夜遅くまで裁縫台に向かっていた。

 夫は、仕事一途、三日に一度しか帰って来ない長距離トラックの運転手だった。

 その後、バラックの隣の空地を八万円で買い取り、小屋のようなものを建てたのは、郁夫が一年生のときだった。

 赤ん坊のときの軟らかい頭を何度も打ちつけて、この子は頭の弱い子になるだろうと心配したが、郁夫は勉強好きになってくれた。陽子は、素直で面倒見の良い子になった。郁夫が六年生になり、陽子が四年生になった年、夫が勤める運送会社が、別に新しく企業を始めたので、二人の子どもの了解を得て、私はその加工紙会社へ勤めることになった。

 その年、昭和四十二年十二月。

「井筒っあん、息子はんから電話やでェ」

 二階の事務所からの声。もう一時間もすれば終業時間だった。

「めったなことで会社へ電話したらあかんで」

 二人の子には、よくよく言い含めてあるのに、私が帰るまで待てない用事とは何だろう。二、三日前から、警察がわが家の内情を、近所へ調べに来たとか、会社へも電話があったとか聞いていた。長距離運転手の夫の身辺に何かが・・・と、不安を抱いていた矢先だった。私は、作業場から階段をかけ上がり、事務所の受話器を取った。

「お母ちゃん、今、宮内庁から電報がきたんや。読むさかいよう聞いてや。『アナタノエイシンカハニウセンニナイテイシマシタ。コノコトハクナイチョウハッピョウマデ、マタウタハ一ガツ一二ヒマデハッピョウセズ。ゼッタイニナイミツニサレタシ。イサイフミ』」

 思いがけないことだった。私はその数年前から詠進歌に応募していた。御題が「紙」のときには、越前和紙に従事した体験を詠んだが入選せず、「川」に入選したのだった。二十五日に宮内庁から発表され、案内書と皇居案内図が入った、分厚い封書が届いた。職場へは報道関係の人が、入れ代わり立ち代り来て、私に喋らせたり撮ったりした。会社側も暮れの忙しいときなのに、協力して私を応援してくださった。

「郁夫、来年の御題の『川』を三つ作ったんやけど、どれを出そうかなあ。ほんとは、京都の川にしたいんやけど。そこの桂川で、友禅さらししてはるとことか、染め工場から色が流れてくる川を詠んでみたんやけど、郁夫はどれが良いと思う?」

「ううーん、僕はこっちが良いと思う。お母ちゃんこっち出しとき」

 小学校六年生の息子が、選んでくれた歌だった。

「ほな、今から清書するさかい、二人とも、しばらく黙っててや」

 子どもの机に向かって、安物の半紙に下手な字で書いたのは、秋分の日であった。

  

  どの家も紙抄く夜なべ終えたらし峡(かい)を流るる川音聞こゆ

 

 昭和四十三年一月十二日、皇居仮宮殿「北の間」で、私の故郷を詠んだ歌は、十二人の預選歌の四番目に、朗々と披講された。私の衣装は、留袖と丸帯は会社から、草履は同僚からの贈り物だった。

 歌会始めの儀式が終わると、預選者は内苑へ出て並び、そこへお出ましになった天皇、皇后両陛下から、入江侍従様が紹介してくださる一人一人にお言葉を賜った。記念撮影などして宮殿へ戻ると、宮内庁長官宇佐美毅様から、御下賜の短冊をいただき、そのあとは祝宴の昼食会だった。「歌会始め」委員の方や、選者の先生方が、歌の動機などを親しく聞かれたが、私たちの一人一人に、宮内庁の制服姿の方が、食事の接待に付いておられるので、どんな返事をしたやら、堅くなるばかりだった。

 そうしている間、私に付き添ってきた夫や、それらの人は、控室で御下賜の煙草や弁当をいただきながら、テレビで儀式のようすを見ていたのだった。最後は付き添いもともに、バスで皇居内を参観させていただき、東京駅まで送っていただいた。感激の極みだった。

 この世に生まれてこのかた、何一つ良い事はなく、人の世の不幸を一身に集めたような私だったが、この事以来、運が開けてきた。

「うちは私立へは行けんな。僕は京大へ行く」

 小学校のころから、わが家の経済状態を見越して勉学に励んでいた息子。息子も娘も、塾へも行かず公立へ進み、息子の郁夫は一浪はしたが、望み通り京都大学法学部へ入った。娘の陽子は、高校を出ると市役所へ就職し、そのかたわら大学の二部へ通っていた。私は、わが子は束縛せず自由に自分の道を進ませてやりたかった。その二人の子は、全く手もかからず金もかからず。

 お陰で、昭和四十三年に建売住宅ではあるが、家を購入することが出来、更に、この子らのためにもう少し広い家をと思い現在の家へ越して来たのは、昭和五十二年だった。

 しかし、子どもたちは成人し、陽子は大学二部を卒えると、職場結婚した。そして婚家の了解を得て職場を退き、教育学を学び直し、その間に子どもを産み、今は中学の国語教師になっている。一方、京大法学部を出た郁夫は、外務省に入りたくて難しい試験に挑戦し、一次二次と進んで行ったが面接で落とされた。だが、郵政省へ入ることが出来て、そこから外務省へ一年間ではあるが出向していた。その後は結婚してから郵便局長も経験し、アメリカへ赴任すること三年。その間に父親になった。私たち夫婦は孫に会いたいこともあって、アメリカ旅行をして来た。

 夫はただただ仕事一途、子どもが幼いころ、

「うちのお父さんは、何でよそのお父さんみたいに、毎日帰って来んのや。何で日曜でも、仕事に行かなあかんのや」

 と、寂しがっていた。が、それもいつか、

「お父さん、今日は何で家にいるの」

 たまに休むと、訝しがられるようになっていた。その長距離トラック運転手の夫は、昭和五十一年に、無事故無違反勤続ということで、運輸大臣賞をいただき、私もともに東京の白金迎賓館へ招かれた。

 そして、この私は、詠進歌に入選した時に、小学校時代の恩師や同級生、満州時代の仲間たちに所在が知られ、多くの人たちと交遊できる出来るようになった。戦後三十年、誰も彼も大なり小なり、苦難の中を生き抜いてきたことを知った。

 そして、敗戦犠牲者の三十三回忌に当たる昭和五十二年、私が属していた『寒雷』誌で加藤楸邨師の選に入った「満州追憶」を、わが子清美の 追悼句集として出すことが出来た。それは、私が紙漉きをしていたころの俳句に、目をかけてくださっていた詩人の則武三雄先生に勧められたもので、編集もしてくださった。なお、用紙は、私が勤めていたY製紙工場が提供してくださったし、費用は、当時引っ越して来た家の、近くへ勤めていた硝子加工会社の社長が、そのことを知って、全額出してくださった。私はこうして多くの人々の恩恵を受け、和綴じの立派な本を出すことが出来たのだった。

 私は川。どこからか落ちてきた一雫が谷川になり、石にぶち当たり岩に打ちのめされ、揉まれ揉まれて紙漉に使われ、溝川へ流され、崖から突き落とされもしたが、今は周囲から助けられ幸せにゆったり流れている。が、豊かな流れには、岸辺に芥の漂うこともある。

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「生かされて生き万緑の中に老ゆ」目次へ戻る