生かされて

家を継ぎ、母とともに住んでいた妹がガンに冒されていたとは知らなかった。本人の妹にも、もちろん知らされてはいなかった。

「胃の手術して、もう二年にもなるんやけど、少しも良うならんのや。少うしずつよう噛んで、飲みこまなあかんのや。私は食べられんのに、おばばはよう食べてなァ。時間がくると、さっさと食べに来るんやし、腹立つわァ」

 妹は平成二年二月に、亡くなった。その一年前の正月、私は母を引き取るつもりで武生の家を訪れ、体調の悪い妹と話し合った。

「やっぱし京都へは行かん言うやろ。おばばは私らが見るのが当たり前やと思てるんやさけィ。ほしてうちの父さんかて、親をほかの姉妹に見てもらうのは俺の沽券(こけん)にかかわる言うてィ、私がまだぼちぼちでも動いているさけ、何でもでける思うてるんや」

 と言いながら、私たち姉妹の子ども時代の話になっていった。二つしか年のちがわない二人は決して仲の良い姉妹ではなかったがーー。

「おっ母(か)は、うら<私>は、おぞいことのうた<苦労した>言うてるけど、嫌なことはみな私ら二人にさせたなあ。豆腐屋してるとき『この仕事はスサヲに継がせんならんで、教えてるんじゃがいの』って人に言うて、工場の休みに油揚げを揚げさせられたの、嫌やったァ」

 私も、いつも「お前は姉やろ」と言われながら、妹にそうしたことを言う母は嫌だった。そして、妹に反発心を抱きながらも、貧しい家を継がなければならない妹が気の毒だった。

「しんどいやろ。寝転んで喋ろか」

「ううん。こうしてしばらく座って縁かったら、食べた物(もん)が下りていかんさけィよけいてきない(苦しい)んじゃげの」

 二人は、食卓に向き合っていた。妹は、自分の胸を撫でながら話を続けた。

「姉(ねえ)は私らとちごうて、学校でも褒美もろたよな頭が良いさけィ、良いとこの人の子ォかと思てたけどーー。五、六年前やったなァ、叔父(おん)ちゃん<母の弟>に聞いて吃驚したわァ。祖母(おばば)は産婆してたやろ。おっ母(か)は若いとき家で機織りしてたって聞いているやろ。祖母の留守のまに、呉服商いの男に上がりこまれたんやとォ。ほ(そ)の男には嫁も子どももあったんやってェ。ほの話聞いてから私、おっ母からぼちぼち聞き出したんやけど、ほの男、姉(ねえ)が七つか八つのとき、死んだんやとォ。姉は何も知らなんだんかァ。自分のお父のこと、知りとなかったんか」

 初めて知った、私の生い立ちの秘密。一瞬、私の血は凍った。知りたくなかった。この体の中を流れている汚らわしい血。それを妹は知っていた。全身の血が逆流するように私の体は震えた。幼いころ、祖母に家に行くのが何より嬉しかった私。

「キクちゃん、いこう(大きく)なったのォ」

 近所の人に言われていたが、すべてを知っていたその人たちにいまさら恥ずかしい。今の世だったら、人に知られる前に、産婆をしていた祖母の手で、闇から闇に葬られていたであろう私の命。若いときにそのことを知っていたなら、私はこんなにひたむきに生きてきただろうか。

「お前は一月十八日生まれになってるけど、ほんとは十五日なんや」、昔聞いた腑に落ちない母の言葉。その三日間、祖母と母は嬰児をひと思いに殺すことも出来ず、自然死を待っていたのだろうか。また、幼い私が、父恋しく泣き明かしていたころ、その男は、育っていく私をどこかで眺めていたのだろうか。それとも、そうした気持ちすらなかった男だったのだろうか。

 母そっくりの顔立ちをしている私だけれど、母から見れば、そのどこかにその男の面影があるのかも知れない。おとこを憎み、私をも憎かったにちがいない。母にとって私は邪魔者であったことは確かだった。母性愛など見られない厳しい母だった。それを私は、母は結婚して私が出来てから夫に死なれた。子連れの出戻り娘は良い所へは嫁がれず、私という者がいるばっかりにーーと、思うようにしていた。それなのにーー。母への憎悪と、自分への嫌悪が私の身うちに渦巻いた。

 そのことを知ったのは、この自分史を書き始めて、三年目だった。自分の生涯は美しく飾りたい。子や孫や夫に、私のこんな生い立ちを知られたくない。そして、現在、わが家で私が看取っている母の過去をあばきたくない。しかし、私は敢えてその真実を書き残す。

 私は、この自分史を学ぶと同時に、生涯学習の中から写経を学ばせていただき、なお、今は写仏をさせていただいている。その中から会得したことは、自分の来し方を顧みると、いつどんな場合でも私は誰かに助けられている。その誰彼はみな、み仏の化身だったのではなかろうか。み仏は、母の胎内を借りて私をこの世へ送り出し、濁世のあらゆることを体験させながら、帰依に導いておられるのではなかろうか。

 

 わが家へ来てからの母は「はよおお迎えに来てください。なまんだぶ、なまんだぶ」と呟きながら、あられもない姿で、私におしめを替えさせたり体を清拭させていたが、だんだん生きる意欲を出してきた。這って便所へ行けるようになり、福祉から支給されたベッドに寝かせて、手を貸すと上がり下がりが出来、私が両手をさし出すと、その手につかまって、足が前へ出るようになった。すると夫は、ベッドから便所までの廊下へ手すりを付けてくれた。母は、その手すりを頼りに伝い歩きをして、便所へ行くようになった。それを見計らって用便の介助をしていたが、やがてそれも一人で出来るようになり、更に洗面所まで行って顔も洗えるようになってきた。

 ところが、母が三十代からのカントンヘルニア(脱腸)が悪化したので、急遽手術ということになり入院した。わが家へ来てからまだ三か月も経っていなかった。私は、母の寿命もこれまでだろうと思った。安楽死を祈りながら、わが家へ来てまだ日の浅い母だから、そのときには、隣近所へ迷惑をかけないように、ああしてこうしてと、病院の廊下で考えていた。

 しかし、母の術後は医師も驚くほど早く快方に向かっていた。が、一時、惚け状態になり、誰彼なしに昔の知人の名で呼び止め、私にしか理解出来ない故郷のことを喋り、楮選りのしぐさをした。

 医師はいつのまに母の頭の断面図を撮っていたのか、何枚も並べて私に見せた。

「脳膜に水が溜まって脳を圧迫するから惚け症状になるのです。この水を抜きたいのですが」

 私は、頭へ注射針でも刺し込んで、簡単に抜けるのかと思った。

「頭の骨を少し削らなければならないので、しばらく治療室へ入ってもらわねばなりません」

 私はもう、鼻やら口やら尿道やら、体のあちこちに管やら線を通され、それを取り払おうとする両手をベッドの両脇に縛りつけられている母の姿を見るのは嫌だった。それに、母の惚けはふだんより生き生きとして楽しそうな表情になるので、このままでも良いと思った。

「九十二歳にもなっていますのに、そんなんせなあきませんでしょうか」

「ほな、もう四、五日ようすを見ましょうか」

 私が納得すれば、翌日にでも手術される気配だった。ところが、これもみ仏のご加護でなくて何であろう。翌日、母はまともだった。

「昨日(きんの)は何で先生(せんせ)に呼ばれたんや。払いのこっちゃったんか」

「ううん。払いは十日に一回やで済ましたよ。おばばほんなこと心配せんでいいんやで」

「ほうか。世話んなるな」

 その後の頭の断面写真には、水が溜まっていると言われた黒い部分が、うすくなっていた。

「はよ、帰りたいわの」と、言うようになった。

「どこへ帰ろ思てるの」。わざと聞いてみた。

「ほりゃ、うらはもう京都のキクエさんとこしか帰るとこがないがいの」

「うらは娘が嫁いだ先の世話にはなりとうないんじゃ」と、頑なに言っていたころもあったが、今は私所へしか帰る場所のない母が哀れで、酷なことを聞いたと思い反省した。

 それからの母は、リハビリに励んだ。

「リハビリいうとこへ行くとなァ、手のない人やら、足のない人やら、体のふんじょ(不自由)な人が、仰山(ぎょうさん)いなはるんやわ。うらは年寄りやけど手も足もあるんやで、歩けるようにけいこしてるんや。ほやけど、歩いてくると弱ってもて(疲れて)のォ、はよ横になりとうなるんやげのォ」

 看護婦さんの介助で、歩行器で歩くようになった母は七十日で退院した。

 私はその間に、入浴の介助を見学させていただいたり、着替えのさせ方おしめの取り替え方など、看護婦さんから習っておいた。

 だが、わが家へ帰ってからの数日は、夫が私の健康を心配するほど、介護が大変だった。

 おしめを当てれば取ってしまい、ねまきもふとんも汚すこと日に何回。夏だったから良かったものの洗濯機は回り通しだった。おしめを当てるにも看護婦さんのように手際よくいかず。私はおしめを当てるのは諦めた。

「おしっこに行きとうないか」「もうおしっこに行きとうなる時間やで」

 それからの私は、耳の遠い母に声を嗄らした。すると、ポータブルトイレが使えるようになり、やがて、伝い歩きをして便所まで行けるようになり、更に用便の介助もいらなくなった。それはちょうど、幼児のおしめから離れる時期のトレーニングのようなものだった。

 今は、入浴させるのが一番しんどい。夫が、「儂が入れたろか」と、言ってくれるが、母は夫がいるときの入浴を嫌う。

「今日はお父さんはいなはらんのか。ほんなら入れてもらおか」

 母は今なお我を通す。浴槽へは私一人の力では入れられないし、入りたくもないらしい。風呂用の介護椅子に座らせて、シャワーは出しっ放なし、冬は傍にストーブを置いて、頭のてっぺんから足の爪先まで。背中は丸くなっているので洗い良いが、屈んでいる前の方は、萎えている乳房を持ち上げ、三段になった腹の皺を一つ一つ引っ張り出して洗う。垢がよれれば落ちるまで指先でこする。それをしないと、老人特有の乾いた皮膚が白いフケのようになって落ちてくる。

 私の腰は痛み出し、汗びっしょりになる。下着類やパジャマの脱ぎ着に手を貸さなければならず、こわばった手足は袖やズボンをっすんなりとは通らない。そのあとは一抱えの洗濯。

 三度の食事と、午前と午後のおやつ。動いている私より食欲は旺盛だ。時間の感覚がなく、夜中でもテレビを見ている。目覚めれば、日に何回となく洗面所へ行き、入れ歯をしたことのない母は、残っている歯を大事そうに磨く。顔を洗ってクリームを塗り、私がときどき散発してやる少ない髪にブラシを当てている。だから、顔だけはとても九十代には見えない。

 娘時代は、映画一つも見に行くことを許してもらえなかった私は、せめて老後は、仕事一途だった夫と旅行でもして楽しもうと思っていたけれど、今また、その母に縛られてどこへも行けなくなった私。

 しかし、私は思い直している。母は寝たきりでないから、私も七十代になっても健康だから、そして夫が広い心であればこそ、私は母に「目を離さず手を貸さず」の主義でやっていけるのだ。

 これも、み仏のご加護があればこそと思い、少しでもみ仏の御心に近づきたいと念じながら、写経を、写仏をさせていただいている。

 そして、余暇のわずかな時間でも、お手伝いしながら老人介護を学びたいと思い、近くの老人ホームを訪ねて、お願いしてみた。だが、私の身を案じられたらしく、期待していたご返事をいただくことは出来なかった。

 それでも、年金生活に甘んじ、市バスの敬老乗車証をいただいている私は、何かをして少しでも世の中へお返ししたい。そこで、去年まで町内百戸余りが毎日当番でやっていた公園掃除を、私に任せていただくことにした。毎朝、夜明け前に起き出て、人の寝ているうちに公園を一巡して、ゴミを拾い伸びた草を引く。三十分ほどで終わるときもあるが、四、五十分もかかるときもある。東の空を真っ赤に染めて陽が昇るころ、きれいになった公園に満足して戻って来る。

 そして、自分の写したみ仏に、今朝も公園掃除をさせていただけたことを感謝し、一日の無事をお祈りする。お祈りしながら、私にはもう一つ夢がある。それは、私自身をも含めて高齢化社会になっている今日、わが家を町内の「老人いこいの場」にしたいことである。

 

  生かされて生き万緑の中に老ゆ

 

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