帰 国

 無蓋車の一つの貨車に、八十人も百人も引き揚げ者は詰め込まれた。座る体力はなく、みんな重なり合って寝転んだ。その私と同じ貨車の片隅に、興隆の山本団長のお姿があった。『福井県満州開拓史』には、興隆の団長山本実氏は、チチハルにて死亡、と記してある。だが、興隆での覇気はすっかり失せ、やつれ果てたお姿で、小さな缶を便器にして跨(また)いでおられるのを私は見た。

 引き揚げ者を乗せた列車は、少し走っては止まり、止まっては走りして、止まるたびに死者を降ろして捨てに行くのを見ていたが、山本団長もあの貨車の中で、あれから間もなく亡くなられたのだろうか。

 

 三十八年後のチチハル。収容所はどの辺だったのか、死骸を焼いたのはどこだったのか、見当もつかなかったが、それを靳(キン)さんに尋ねるのは、控えた。いくつかの心残りはあったが、現地慰霊の目的を果たした私たちは、靳さんと感謝と親睦の念を込めた握手を交わし、帰途に就いた。

 ハルビン行き急行は、赤い夕日の大陸をひた走りに走った。死骸を捨てに行った野原は青々と豊かに。舎(こや)へ戻る羊の群れ。林立する穀物サイロ。平和な人家があった。停車したのは大慶だった。「工業のことは大慶で学べ」と言われるほど、中国一の油田地帯になり、活況を呈している。折りしも退社時とあって、人の乗り降りが多かった。私たちは食堂車で中国料理のテーブルを囲み、昔を偲んでいた。

 生きて帰りたいと思いながら、死んでもいい、水だけでも、腹いっぱい飲みたかった。アメーバー菌の井戸水は飲むことを禁じられていたが、汲んで来た人から分けてもらって飲んだ。それは、少し飲んでも直ちに腹痛を起こし下痢をした。引き揚げ列車では、何を食べていたのか記憶にないが、ひもじさだけを覚えている。

 ハルビンのホテルでは、私たちが無事現地へ行くことが出来たか、心配して待っていてくださった。翌日は、その人たちと松花江(ショウカコウ)遊覧。遊覧船に乗って、行き交う船に、「你好(ニーハオ)」と手を振った。長い鉄橋には、橋より長い汽車が走り、その下を人も通っていた。

 またしても、記憶は蘇る。その鉄橋は破壊されていて、舟で渡らなければならず、渡し舟に乗る順番を待つため、何日も松花江畔で野宿した。引き上げ列車は錦県まで何日もかかり、錦県では、元関東軍の馬舎に収容された。コンクリートの上に麻袋(マータイ)を敷き、清美を負う「カメの子ぶとん」に母子はくるまって寝たが、地の底からの冷えに、栄養失調の清美は激しい下痢をし、私は高熱に冒された。引き揚げ船の出るコロ島へ送られるまでの何日間、死にたくなかった。死なせたくなかった。

 ようやく乗り込んだ引き揚げ船は、何日もかかって佐世保へ着いた。が、伝染病患者がいたので、沖の方へ隔離され、更に海の上に一週間いた。その間にも、死者は何人も出た。故国を目の当たりにして、どんなに無念だったであろう。

「引き揚げ者の皆様、永い間ご苦労様でした」

と、大きく書かれた横幕を目にした、南風崎(はえのさき)<佐世保>上陸。

「帰って来た。生きて帰って来た。清美もまだ腕の中でこうして生きている」

 わが子を抱きしめて、私は感涙にむせんだ。故郷へ着いたのは、十月十五日の夜だった。

「生まれ故郷へ錦を飾れ」。母がよく言っていたことばだったが、ボロをまとい、ぼろぼろになっている母子の姿を、誰にも見られたくなかった。昔と変わらぬ山と川が、懐かしかった。

 

 中国慰霊の旅はわずか一週間で、北京の故宮見学も出来、日航機と中国民航機を乗り継ぎ、また「軟臥車<寝台車>や食堂車の中で、旧交を温め合い、中国人の広い心にも、ふれあうことが出来た。平和がありがたかった。

 

 栄養失調の清美は、引き揚げ船の中で百日咳に感染していた。その苦しみようは見るに忍びなかった。武生市の医師にかかったが、「この体で、よく命が保てたものだ」と言われた。それでも私は、父親に会わせてやりたかった。シベリアに抑留されているであろう、清美の父親の復員を待った。

 が、昭和二十二年一月九日。「じい、じい」、父親を知らない清美の血は血を呼ぶのか、祖父を呼んだ。仕事が忙しいとか何とか言いながら、不承不承に来た舅。その祖父に抱かれて、清美は息を引き取った。

 引き揚げ列車の中で死ねば野に捨てられ、死骸は犬や烏に食い荒らされ、引き揚げ船だったら、海に放り込まれた。わが子をそのようにしたくなかった私は、父親の故郷で荼毘に付すことが出来たことはせめてもの、救いだった。

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「生かされて生き万緑の中に老ゆ」目次へ戻る