チチハル、
チチハルには、北方からの日本人難民が溢れていた。難民収容所は何か所もあって、松原さんの家族ということになった私は、義勇隊の人たちとは別れ、収容された所は、元関東軍の倉庫だった。その周囲には、解凍し始めた死人が積み重ねられていた。私たち母子に当てがわれた場所は、畳縦半分ほどだった。
私はその床の上へ、四日間負い続けてきた清美を背から下ろすと、清美は嬉しそうにひょろひょろしながらも手を振って五、六歩だが歩いてくれた。清美は負うている間に、肩も足も治ったらしい。障害が残らなくて良かったと思い、私は嬉しかった。 チチハルへ出ると、すぐにでも帰国出来ると思った。しかし、現地では団長の指示によって、物を分け合い、助け合ってきたが、チチハルへ来てみると、団長はどこかへ収容されたのか、自分の力で、生きなければならなかった。日本人会から日に二回の食事の支給はあったが、とてもそれだけでは生きてはいけず。 重なり合うように寝ている収容所では伝染病が蔓延し、栄養失調の体を容赦なく冒していった。髪は抜け落ち、皮膚を被った骸骨そのもの。また反対に、青ぶくれになっていく人もいた。それでも、みんな生きたかった。 チチハルの郊外に関東軍の飛行場跡があり、軍用機の残骸が落ちていた。その周辺を捜して、物を煮炊きする鍋にするため、鉄兜を拾って来た。うっかり手榴弾を拾って、腕を飛ばした少年もいた。石ころや煉瓦の欠けらを並べてかまどの代わりにし、木の葉やゴミを集めて来て、傍で焚いている人に火種をもらい、拾って来た物やもらった野菜屑をその鉄兜で炊く。炊きながら、倒れて死んだ人もいた。 私の傍で寝ている人の寝息が静かになったと思うと、死んでいた。死人から虱が移動し蚤が飛び交い、人は痩せ衰えて死に、虱と蚤が丸々と太り、うようよと増えていった。その中で、孤児が売買された。あたかも品物を買うように、姿かたちを眺めすがめつ、大声で交渉し仲に入った人になにがしかの食糧をおいて、その子を引き取って行った。 私はこんな所にいてはとても生きては帰れないと思った。また、興隆にいたころから、一人の男に数人の女、子どもがあてがわれていたので、男の人の重荷になっていた。私は、妹のおかげで松原家の一人になってはいたが、人に頼ることは嫌だった。そこで、職を求め、食を求めてチチハルの街を歩いた。 清美を負い、寝具の麻袋を腰に巻き付け、鉄兜の鍋を腰にぶら下げた。収容所に置いておけば、盗まれるからだった。何ヶ月も風呂に入ったことはなく、着替えはなく、人の血に染まり破れた防寒衣は、表地と綿を引きむしって裏地を着ていた。それには「俘虜第××号」と記した布が、胸と袖に張りつけてあった。髪はざん切り、鏡など見たことはなかった。その汚い異様な姿の私を、誰も雇ってはくれなかった。「マイタイマイタイ、カイゾウ<汚い汚い、早く立ち去れ>」 小孩(ショウハイ)たちに馬糞をぶっつけられながらも、私はその辺に落ちている野菜屑や、燃料になる物を拾っていた。とにかく、母子が、住み込んで働ける所が欲しかった。 そんな折、収容所へ八路軍<共産兵>が、縫製工を募集に来た。子ども連れでもよいという。勤務先は、チチハルより南の昂々渓(コウコウケイ)だった。少しでも日本へ近づけると思った。 応募したのは十五、六人で、子連れは私を含めて三組。興亜から顔見知りの、小堀さんと竹内さんの姉妹だった。私たちは八路兵について、チチハルから汽車に乗った。四、五人の八路兵が網棚の上に寝そべって、私たちを監視していた。何時間か汽車に乗り、昂々渓へ着くと、八路軍の兵舎へ連れて行かれた。 隊長らしい人に迎えられ、夕方私たちはその人に飯店(ファンテン)へ案内され、中華料理をごちそうになった。それは餃子とスープだけだったが、私たちには久しぶりに味わう大変なごちそうだった。そのとき、その飯店の太々(タイタイ)<ママさん>が、私たちに囁きに来た。 「私は中国人と結婚した日本人で、この飯店を任されています。あなたたちは、八路兵について来たのですね。今に大変なことになりますよ。だけど何かあったら、ここへ来なさい」 その夜、収容所より大分ゆったりした場所が与えられ、十五、六人の女たちは、子ども連れも一緒にずらりと並んで寝ることが出来た。と、その夜半、真ん中辺りに寝ていた人が、「キャァッ」と叫んだ。何事かと頭を上げて見ると、黒い男の影が、その人に覆いかぶさっていた。誰も助けようとせず、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをして、何事もなかったように夜は明けた。太々が言っていたのはこのことだったのだろうか。仕事は軍服のボタン付けということだったが、そうした材料はどこにもなく、兵隊と同じような食事が与えられた。私たちは、八路兵の慰安婦に雇われたのだろうか。恐ろしい夜が、二夜続いた。 ところが、三日目の朝、八路兵たちは慌て出した。ハイラルへ北上する、私たちも一緒に連れて行くという。ハルビン付近で国府軍と戦っていた八路兵が、破れたので、北上するのだった。ようやくチチハルまで南下し、更に昂々渓まで南下して来た私は、もう北方へは行きたくなかった。 「不去(ブチュイ)、我不去(オーブチュイ)<私は行きません>。」私は清美を抱いて動かなかった。 「私も行かない。」小堀さんも、子どもを抱いて座り込んだ。だが、竹内さんは動き出した。 「子どもと一緒ならどこへでも行こう。食べさせてもらえるんだから行こう。」と、みんなと一緒に外へ出ていった。 「カイゾウ、カイゾウ<早く出ろ>」。一人の兵隊が来て、清美を銃身で小突き、私に銃口を向けた。ここで殺されても、北上はしない。殺されるならわが子も一緒にと念じ、清美をしっかり抱きしめて動かなかった。と、そこへ、「手榴弾をこっちへ投げようとしているよ」、先に出ていった竹内さんが、慌てて告げに来た。すると、私に銃口を向けていた兵隊は、その銃を引っ下げて出て行った汽車の時間が迫っているのか、兵隊たちは急いでいた。チチハルから来た十二、三人の女たちも急かされながら、駅の方へついて行った。 私と小堀さんは、竹内さんに目配せして最後尾について行き、「何かあったらここへ来なさい」と言われた太々のいる飯店へ逃げ込んだ。太々は、私たちを店の裏へ招き入れ、燃料として積んである野草の中へ匿ってくださった。夜になると、客の食べ残した物をかき集めて、食べさせてくださった。 いつ追っ手が来るかも知れず、びくびくした一夜が明け、早々に昂々渓を去らねばならず、太々は早朝なのに、ご主人を連れて来て紹介した。紺の大衣装(ターイーシャン)<裾までの長い中国服>を着た、背の高い恰幅の良い、いかにも大人(タイジン)<主人・親方>らしい人だった。その人は、太々の説明にうなずきながら、ポケットから私たち三人のチチハルまでの旅費を出してくださった。汽車ではなく、店の近くから出ているチチハル行きの大車(ダーチョ)を教えられて、それに乗って帰った。 満馬三頭引きの大車には、満州人や蒙古人の男女が十人ほども乗っていて、私たちのことを「ワイワイがやがや」話していた。その中の主婦(シーフ)が、三人の子どもに大きな家鴨のゆで卵を一つずつ恵んでくださった。 私は、再びチチハルの街を彷徨した。「売氷菓(マイピンガ)「売煙草(マイヤンジャル)「売饅頭(マイマントウ)」。日盛りの街角に立つ日本人の女。栄養失調で頭をだらりと後ろへ垂れ、口をあんぐり開けた子を負うて。死期がきて、耳や鼻、口に蛆が蠢(うごめ)いている子も負われていた。私だけでも、わが子を生かして、連れて帰りたかった。 私は、日本人会で、難民の職業紹介をしているのを知った。どんな仕事でもいい。母子で住み込める所を希望した。それは、乳母の口しかなかった。清美はやがて満二歳になる。十分たべさせてもらえるとしても、私に母乳が出るだろうか。わが子は一歳だと偽って乳母に行くことにした。 馬車(マーチョ)に乗せられて行った所は、チチハル市の西門から出た郊外で、市街を出ると、一郭一郭が高い土塀で囲まれている。その一つに連れて行かれた。門を入ると、十戸ほどの家がかたまっていて、いろいろな職業の人が住んでいた。私を雇ったのは、李錫全(リシャクゼン)という小学校の校長先生で、太々(タイタイ)<ふじん>は、阿片中毒者だった。子どもは生後四、五ヶ月ぐらいで、敦華(トンファ)という女の子だった。ほかに八十歳の老太(ロータイ)<おばあさん>と、独身の兄がいた。 その夜、どこを向いても満州人ばかりで不安はあったが、私は満州へ来て以来、初めての電灯がまぶしかった。敦華の両親は、家事は、別室で老母と寝起きしている兄に任せっきりだった。兄の方が早く起きて、水を運び込み朝食を作り、朝食が終わると兄弟は出勤した。夕方帰って来た兄は、また夕食を作る。私の母乳が出るようにと、ときどき餃子や肉まんを作って、母子がお腹いっぱい、食べさせていただいた。清美はその人たちになついていった。 太々は、毎日寝転んで読書をしていたが、ときどき、「アイヤーアイヤー」と苦しんだ。そんなときは、ふらっと外へ行き、清美に大きな揚げパンを買って帰って来た。清美は「太々(タイタイ)、太々」と、手をたたいて喜んだ。そして太々は腹這いになって、気持ち良さそうに阿片を吸っていた。 敦華は、私の乳房に吸いつきながら、私の顔を見上げて、にこっと笑うようになった。足りない私の母乳を補ってくれたのは、隣の家に住んでいた太々で、主人は、煙草の露天商いに出ていた。 李家ではそれを知りながら、私たち母子を優遇してくださったのだった。隣近所の人たちとも笑顔を交わすようになり、安穏な中にいた。しかし、不安なのは収容所から一人離れている間に、日本人引き揚げが始まり、置いてけぼりになりはしないかということだった。それで、ときどき、太々の許しをうけて、収容所へようすを見に行っていた。私たちのチチハル引揚げは、昭和二十一年八月二十八日に決まった。李夫妻にそれを告げると、夫妻は、敗戦後の日本国内の惨状を語られ、帰国しない方が良い、お互いの愛児のために残留するよう勧められた。 が、私の帰りたい一心が分かると、四十五日間の給料として四百五十円と、私の足に合いそうな靴を捜して来てくださった。そして、太々は敦華を抱いて、西門まで見送りに来てくださった。別れの握手を交わしたときの太々の手の温もりは、私の生涯、忘れることが出来ない。西門には満州の夕日が赤かった。
歳月は流れ、昭和五十八年に訪中の折、李錫全ご夫妻に会いたかった。三十七歳になっている筈の、敦華に会いたかった。四十五日間置いていただいた李家は。太々と別れた西門は。 チチハル市を囲んでいた城壁は取り除かれていて、西門の跡さえ分からなかった。
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