越冬、興隆開拓団
興隆開拓団は福岡県出身者が多く、興亜より大きい団だったので、男の人も大分残っておられた。そして九州男児の威力は、現地人の襲撃を寄せつけなかった。しかし、公然と入って来るソ連兵や満州国軍兵には抵抗出来ず、掠奪されるままだったから、食糧や物資が残っている筈はなかった。それなのに山本団長は、私たち興亜の生存者を受け入れてくださったのだった。
もとよりこの団も、わが家を引き払い本部へ集結していたから、一つの宿舎に何家族も入っていた。その中へ私たち数十人が割り込んだのである。もちろん、ふとんはない。そこで当てがわれた麻袋(マータイ)一枚が母子の寝具になり、寝返りも出来ないほどの、ぎゅうぎゅう詰め。風呂場はあったが、私たちにまで順番は回らず、虱と蚤が繁殖していった。 興隆の団長は、さすがに襲撃を寄せつけないだけの威厳があった。再三、チチハルへ逃避しようという意見が出たが、酷寒に向かって、治安の悪いチチハルまでの二百キロを、女や子ども、病人の行軍は犠牲者を多く出すばかりだ、ここで越冬しようと、自分の決断を揺るがさず、六百人ほどを統一した。 女も子どもも小隊に組まれて、朝夕の点呼があり、各自の役割が決められた。男は警備と、満州人の知人を頼って食糧を調達に行く。女は燃料の野草刈りや近くの水田の稲を刈り、脱穀したり臼で搗いたり。子どもは幼い子の子守。老人はそれを見守りながら、炊事に当たった。調達して来た物を、少しでも自分のグループだけで分けようものなら、厳しいリンチを受けなければならなかった。 興隆へは、私たちより先に、十箇団の総本部の人たちも避難して来ていて、私たち母子と妹は、その人たちと同じ宿舎だった。命からがら逃げて来た私たちと比べ、総本部の人たちにはまだどこかに豊かさが残っていた。 ある夜、総本部部長だった××先生を、警備に当たっていた人が誘いに来た。 「××先生を、団長がお呼びです」 「今夜は気分が悪いから、明日にしてください」 先生は断っていたが、再三呼びに来るので、高い背を丸めて渋々出て行かれた。そして、朝方、また警備の人が入って来た。 「××先生は、亡くなられました」 みんな吃驚(びっくり)した。奥さんは生まれて間もない子ども(ほかの人は、生まれると即座に締め殺した)を抱いて、真っ青になっていた。間もなく遺体は、汚い箱に入れられて宿舎へ運び込まれた。箱の透き間から血が滴り落ちて、オンドルの上のアンペラを汚した。早く朝食をすませて遺体の始末をしなければならず、私はためらうことなく、その血を拭き取って、食事の用意をした。 ××先生は、十箇団の物資を、隠匿詐取していたということだった。 私は毎日、子どもを預けて作業に出ていたが、「よく泣く子だ」と嫌がられ始めた。それで私は、一つぽつんと離れた、藁で囲んだだけの風呂場へ、清美を押し込んで作業に出た。作業を終えて急いで行ってみると、入口に吊るしてある筵にしがみついて眠っていた。その顔には、涙の乾いたあとが残っていた。疳(カン)にはお灸が効くと言われるまま、泣く子を押さえつけて、お灸もすえた。 誰からも愛されずに育ってきた私は、わが子は愛おしみ育てようと心に決めていながらきつい折檻をしているのだった。そんなことをしながら気づいたことは、歩き始めた子が歩こうとせず、右手をぶらぶらさせ、左手をついて躄(いざ)っている。右肩の骨がはずれていたのだった。その上、足の裏は凍傷になっていた。 そのころ、米田さんは一人、枯れ草を集めて黄昏どきの野原で、わが子を焼いていた。 興隆の近くには、モスクワへ通じる道路があった。毎日ソ連兵のトラックや戦車が通り、いつ団の方へ向きを変えて私たちを襲って来るか分からなかった。野草を刈りながら監視台からの合図に気を配り、合図のバケツがたたかれると一斉に草むらに身を隠した。満州国軍兵も騎馬隊も来た。あるとき、私は騎馬隊の一騎に見つけられ追われ、必死の思いで草の中へ屈み込んだ。騎馬は私の頭上を飛び越えて行った。 ある日、公安隊の旗を掲げた一隊が堂々と入って来て、男女別に集めて閉じ込めた。私たちが閉じ込められた所に、病気で寝ている男の人がいて、呟いた。 「俺らも上海で女と子どもを閉じ込めて、火をつけたなァ」 その報いで、今、私たちは焼き殺されるのだろうか。私は清美を抱きしめていた。 そのとき、私たちには何事もなかったが、団長以下数人の幹部が拉致された。拉致された人は、拷問でさんざん傷めつけられたあげく、三日目に帰された。警備隊長の松原さんは、体の何か所も削がれ、零下のの馬屋へ放りこまれていたとか。私が属していた小隊長は、帰されて来るなり、頚動脈を切って自決した。 一方、松原さんは団長にも劣らぬ気性のの烈しい人で拷問の傷にもめげず四十日ほどで起き出し、警備態勢は一段と厳しくなった。 夜中に非常呼集があり、歩哨に出なければならず、後追いして泣く子にかまけていると、「子どもは処分してしまえッ、突き殺すぞッ」と追い立てられた。子どもに心を残して歩哨に立つ、といっても防寒靴が地に凍りつくので、足踏みしていなければならない。吐く息で防寒帽に氷柱がが下がった。足踏みしながら天を見上げた。天は下界に何が起きようと、月は晧々と輝き、星は満天にきらめいていた。この天の下に日本がある。故郷がある。許されなかった恋を諦め、人を恨み、何もかも忘れたくて捨てて来た故郷が、無性に恋しかった。 柴田さんはまだ十七歳の少年だったが、報国農場の幹部たちが応召したため、その後任に福井県庁から来ていた。 「はよ帰りたいなァ、いつ去(い)ねるんやろなァ」 作業しながら、いつも言っていたが、肺炎になった。水に浸したボロ布を、頭にのせるだけの看病しか出来なかった。ある日、突然ソ連兵に侵入され、私たちは取るものも取りあえず逃げた。その間に柴田さんは、素っ裸にされ、殴られ逃げ回ったようすだったその数日後、 「姉ちゃんも来てくれたんか。父さんも母さんも来てくれたし、みんな一緒に帰ろう」 と、私の手を取りながら、息を引き取った。 女は丸坊主になり、男も女も、同じようにボロになった防寒衣を身につけていたが、女はやはり女に見られ、敵から狙われた。そこで親たちの計らいで、まだ十代の若い男女を夫婦に仕立てた。わたしの妹は、警備隊長の松原さんの息子に見初められていたので、私もともに、その家族ということになった。 興隆へ来てから襲われて殺されるようなことはなかったが、酷寒の中の栄養失調で、多くの人が亡くなった。現地の人が収穫したあとの、屑野菜を捜した。凍った人参を噛って、リンゴの味を思い出した。野犬も番犬も、手当たり次第肉になって配給され、その犬の顔がごろごろ転がっていた。 そうした中にも、春は来た。 五月になったら、チチハルへ出よう。一人も落伍しないように、という団長の意図から、毎夕点呼後、足の鍛錬を始めた。子どもを負い、寝具も、ある程度の食糧も持たなければならない。その量の物を身につけて、壕の内周りを昨日は四周、今日は六週、明日は八週という具合に、大勢の女と子どもが歩いた。近郊の現地の人たちは、壕を乗り越え、土塀の上から顔を並べて、嘲笑しながら、その情景を見物していた。 その間に、男の人二、三人で組んだ数組が、満州人に身をやつして、チチハルまでの治安状況や安全なコースを探りに出かけていた。その人たちは、七日で帰った組もあり、十日もかかった組もあった。 そして、昭和二十一年五月十三日朝、私たち4百人ほどは興隆開拓団をあとにした。病人には、みんなが金を出し合って、大車(ダーチョ)を雇った。 「嗚呼、昭和二十年犠牲者の墓」と、記された棒杭が、私たちを見送っていた。 早く日本に帰りたい。少しでも故国へ近づきたい一心だった。が、西沢千代子さんはーー。 「私は満邦を負うてチチハルまでは歩けん。途中で、みんなの足手まといになるだけや。知らん所で置きざりになるより、ここへ残って、知ってる満州人の世話になる方がいい」 と、言い出した。西沢さんは、私と同期の、大陸の花嫁の四人の中の一人であった。 女と子どもばかりになった義勇隊に、一人残った隊員の漆崎さんは、責任上、叱ったりなだめたり一生懸命チチハル行きを勧めたが、聞かなかった。西沢さんは、興亜の団の十人余りの孤児とともに、火梨地集落に残留した。その孤児たちのほとんどは、一時帰国または永住帰国したが、西沢さん母子の消息は、ようとして知れず、現地慰霊に行ったときも、その名すら知る人はいなかった。西沢さんは、なぜ残留したのか。その気持ちを聞こうともしなかった私。自分が生きるのに、精いっぱいだった。 満州では毎春、ボロぶとんを担ぎ、ボロをまとった移動苦力(クーリー)の行列を見かけたが、それにも劣る身なりをした、女と子どもの行列だった。 蒙古人は比較的好日的だということで、その馬宿に泊まった。一日五十キロも歩くと、靴の底は破れ、足裏一面に血豆は出来、膝は突っ張って曲がらなかった。その体を、馬の足元の藁の中で休めた。蒙古人の好意の食事(豚の餌だったかもしれない)をむさぼり食べ、包米饅頭(ポーミーマントウ)の欠けらを弁当にもらった。 「今日は、あの森の見える所まで行くぞう」 そこが今夜の宿だと思うと元気が出た。後に続いて来る人のことは考えようともせず、自分だけは落伍すまいと先導者について一生懸命歩いた。しかし、目当ての森は行っても行っても地平線の彼方だった。 と、思いがけない所から満州国軍兵が発砲しながら飛び出して来て、私たちの行く手を遮った。みんなばたばたとそこへ座り込み、両手を挙げて降伏の姿勢をとると、兵隊たちは私たちの体を撫で回して、持ち物を調べ、大事に持っている遺骨をばら撒かれた人もあった。 嫩江(ノンジャン)を渡れば、チチハルへ出るのは近いのだが、舟賃はなく、安全な所を選んで行くのだから、遠回りしていたと思う。五月半ばといえば、野原は緑に満ちていた筈なのに、その美しい野を歩いた筈なのに、灰色の記憶でしかない。二百キロ余りを四日足らずで歩き、一人の落伍者もなくチチハルへ着いたことは、興隆開拓団の山本団長の強いご意志の賜物だった。
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