興亜開拓団の最後

 ある日、わが家の屋内へ入って来た蟻の行列に、殺虫剤を噴きかけた。蟻の多くはつぶつぶと動かなくなったが、数匹が懸命に逃れようと彷徨(さまよ)っていた。私はその彷徨う蟻に、昔の自分の姿を見た。いくたびも死に直面し、多くの死を見ながら私は生かされてきた。私はもうその蟻を殺すことは出来なかった。

 

 敵国の真っただ中で祖国の敗戦を知った私たちの間で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校校長の坂根先生は自決組の先頭者で、教え子や義勇隊の女たちはそれに賛同した。生きて敵に辱めを受けるより、敵に殺されるより、自分の意思で命を絶とうと思ったからである。

 八月二十日、その日は清美の満一歳の誕生日だった。その短い命を詫びながら、その子にも白鉢巻きをさせた。午前十時、学校へ集まって坂根先生の銃で殺していただく、校舎には石油が撒かれ、最後に、先生が火を放つことになっていた。

 ところがその直前になって、団長や反対組の主(おも)だった人が、妨害に来た。

「きみたちの夫は、やがてここへ戻って来るだろう。その時どう説明すればいいんだ。このまま見殺しには出来ないのだ」

 すでに決意している私たちは、反論した。が、

「公共の学校を焼くことは許せない」

 と、厳しく言われたので、決行出来なかった。

 しかし、その翌日、坂根先生一家六人は自決を遂行された。教員宿舎の前にご家族は毅然と立たれ、先生は自決組だった私たちに向かって、最後のことばを残された。

「先立つことを許して欲しい。あなたたちは生き延びて、祖国の復興に努めて欲しい」

 私たちは返すことばもなく、静かに宿舎へ入って行かれるご家族を見送りながら、誰からともなく「君が代」を歌い出していた。二人の男の子の泣き声は二発の銃声で消えた。私たちは、教員宿舎の前で固唾を呑んで立ちすくみ、六発、七発の銃声を聞いていた。

 血しぶきの散ったペチカの白壁には、大和魂が祖国とともに北満の果てに散って行く、という意味の辞世の歌が記されてあった。

 武装解除は二十五日。男たちは小銃、拳銃、刀剣、弾丸を集めて大車(ダーチョ)に積み、平陽鎮(へいようちん)警察署へ運んで行った。その日、留守の本部を守っていた少年二人が襲撃され、瀕死の重傷を負ったが、手当ても出来ないまま、後日亡くなった。

 その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、威嚇射撃しながら私たちの宿舎へ乱入して来た。そして手当たり次第に略奪し、女を漁った。私たちは髪はざん切り、顔にはかまどの煤を塗りたくり、娘さんにも子どもを負わせて、かたまっていた。ソ連兵に狙われると、逃げる女の三倍ほどの大股で、ベルトをはずしながら追われるのだった。男は一か所に集められて閉じ込められていた。

 夜は、現地人が襲って来た。

 九月になったある日、いつものように入って来た満州国軍の兵隊に、私たちの宿舎のどこかに一つ、置き忘れられていた薬莢(やっきょう)が見つけられた。そのとき、応対した山田先生(山田指導員の夫人で、教員だった)が撃ち殺された。「坊やを頼む」と、一言残されて。坊やは三歳だった。

 坂根先生のときは、まだ火葬が出来たが、もうその余裕はなく、遺体に土をかぶせただけなので、その夜の襲撃で衣服は剥ぎ取られ、無残な姿が放り出されていた。自決組だった先生が、愛児を残して殺されなければならなかった無念さが思われた。

 私たちは、昼はソ連兵や満州国軍兵から身を隠すため、野菜を貯蔵する穴蔵に潜み、夜は現地人の襲撃に対し、手製の槍を持って警備に臨んだ。が、「ワァーッ」と喚声をあげて襲って来ると、私は槍を投げ出し、子どもを預けている方へ走り、子どもを負うて逃げた。逃げる所は、いつも高粱が林のように伸びている畑である。みんな同じ方向へ逃げた。それを目がけて弾丸が飛んで来る。一緒に逃げている傍の人が倒れた。もうどうにでもなれ、と思う私には当たらなかった。

 一番鶏が鳴くころ、彼らは、略奪した物を大車(ダーチョ)に積んで引揚げて行く。毎日毎夜、その繰り返しで、人は殺された。

「屯長(トンジャン)ナーベン<団長はどこだ>」

 終戦前は、白髭を蓄え長剣を下げ、長靴を(ちょうか)を履き馬に跨り、陸軍将校然として、義勇隊の集落を監視に来ていた団長は、ほかの幹部が拷問に遭っているとき、私たちと同じように穴倉に潜んでいたり、高粱畑に身を隠していた。

 食糧は乏しくなり、春に手がけた稲や野菜は収穫できる筈だったが、もうその周辺は敵地だった。私は大坂さんと西沢さんを誘って、農場にいたころの朋友(ぽんゆう)を頼って物乞いに行こうと思った。ところが、正門から出ていこうとするところを、団長に見つけられた。

「こらっ、女だけでどこへ行く」

「朋友のところへ食糧をもらいに行きます」

「壕外へ出て教われたらどうするのだ」

「この中にいても襲われるときは襲われます。団長はその時助けてくれますか」

 私は言い返して出て行った。朋友の家で少しばかりの食糧をもらっての帰途、その集落から出て来た二人の男が、長い草刈鎌を担いで、私たちの後からついて来た。草刈に行くのだろうとは思いながらも怖かった。

 その夜、団長の指示により、私は六年生の女の子を連れにして、正門の警備に立たされた。手製の槍を持ち、寒さに耐えながら立っていると、西と東で狼火(のろし)がとろとろ、とろとろと上がった。わが団を襲う合図かもしれないと思い、女の子に本部へ伝令に行かせた。今ここへ「ワァーッ」と襲って来たら、私はどうなるだろうと思い、わが子を残して殺されたくなかった。

 しかし、その夜は遠くの団が襲撃されていた。一望千里の広野に見えたが、夜は火の手が上がると、右往左往する人影が手に取るように見え、喚(わめ)き声まで聞こえるようで、自分が襲撃に遭って逃げまどう以上に、怖くて無気味な立哨(りっしょう)の夜だった。

 そして忘れもせぬ、十月九日。時計などとっくに奪われていたが、月日だけは覚えている。その日、近くの顔馴染みの朝鮮の人、数人が本部を訪ねて来た。

「毎夜襲撃されているのを見るに忍びず、今夜から銃を持っている私たちが、警備してあげよう。今までは、同じ日本人だったのだから」

 と、親切に言ってくれるので、幹部たちは、なけなしの物を出し合ってもてなした。そして夕方、私たちも「お願いします」「どうぞお願いします」と、正門から出て行くのを見送った。

 と、その人たちが正門から出ると同時に、四方から、「ワァーッ」という喚声と銃声だった。その日、防備にと壕の上の土塀に、有刺鉄線を張りめぐらしたばかりで、逃げ道はない。

「俺について来い」、誰かが鉄線を切った。雪崩れるようにそこへ走った。銃弾はそこへ集中して飛んで来た。見苦しい姿で殺されたくない、一瞬そうした思いが走り、私は立ち止まった。撃たれた人、捕らわれた人、私は高粱畑へ逃れて一夜をそこに潜んでいた。清美は声も出さず、私の背に顔を埋めていた。

 宿舎は全部焼かれ、学校にも火は放たれた。校舎には石油が撒かれていたので、火勢は烈しかった。その天井裏には、怪我人や病人が匿われていた。「うちの人が、うちの人が」。燃えさかる学校に向かって、叫んでいる人がいた。

 血まみれになって逃げて来た人に、私は非常袋から手拭いを取り出して、その腕に巻いた。私の防寒服はその人の血で染まり、逃げるとき、鉄線に引っかけたズボンは破れ、そのまま着のみ着のままになった。

 その夜が明けて、入る家はなく食糧は奪われ尽くし、殺された人を集めて土をかぶせ、呆然と立ち竦(すく)んだ。興亜開拓団の最後だった。

 団長が私たちを見捨てたのか、残った者が団長を見限ったのか。団長は二、三人の人と、私たちとは反対の方へ行った。私は大勢の方へついて行くしかない。数人の男の人のあとについて、女と子どもと怪我人の行列。

 男たちが、長年かかって開拓した大地。その男たちは、今そこにはいず。残して行った子どもを負うて、その地を去らなければならない口惜しさ。私たちは、まだ燻っている興亜開拓団を見返り見返り、おいおい泣きながら、とぼとぼと枯野を歩いていた。北満の十月半ばといえば、もう零下の真冬だった。

 

   それから三十八年後の、昭和五十八年。

「最後までいなった女の人に来てもらわなァ、俺(うら)らだけ行ったって何(なあ)もわからんでのォ。チチハルからあっちは、旅行社の方でも分からん言うてるけど、チチハルまで行ったら何とかなるわいのォ。今のうちに行っとかなァ、年寄ってしもたら行かれんでのォ」

 毎年、福井県護国神社の慰霊祭で顔を合わせている、元義勇隊の幹事をしている金元さんから、現地慰霊の旅に誘われた。

 私たち女四人は、電話で相談し合った。四十万円近く要る旅費もさることながら、気候風土の異なる、しかも治安が定かでない所まで行こうとする、六十代になった自分の健康が不安だった。

「身体のこと言うてたら、俺らやて一緒や。仲間どうしや、何とかして行こまいかいのォ」

 再三の誘いに、横浜の内田チヨさんと私、神戸の大坂さんと若狭の米田さんは、夫が元義勇隊員だが、奥さんだけということになり、男八人、女四人で行くことになった。

 その年六月一日、ハルビン周辺へ慰霊に行かれる「ハルビン朋友会訪中団」の仲間へ入れてもらって、旅立った。

 ハルビンまでは、一行二十五人の楽しい旅だったが、ハルビン班と分かれてチチハルへ向かう私たちには、まだチチハルから奥地の交通事情も治安状況も、分かってはいなかった。

 チチハルのホテルは、昔から名の通った湖浜飯店だったが、明日は無事目的地へ行けるだろうか、という不安に眠れなかった。

 ところが、早い朝食を促され、急かされて外へ出て見ると、ワゴン車が二台待っていた。「その地方は初めてだ」と、自信なげだった添乗員兼通訳の張さんが、市と交渉してくださった結果だった。それは六月四日だった。

 私たちはそれに分乗し、私たち女性が乗った先導車には、チチハル市職員の靳(きん)さんがおられた。私と席が隣になった靳さんは、日本語の辞典を持っておられ、中国語を学んでいた私と話が弾んだ。前日来の緊張はほぐれ、車内には笑いさえ起こり、和やかに車は進んだ。

 四十年前は一望千里、道らしい道はなかったが、今はどこまでも舗装されていて、道路の両側は並木林になっている。全国的に植樹運動が進められているという。ときどき放牧の豚や牛が、広い道をゆっくり横切っていた。

 興亜は甘南県にある。甘南招待所で昼食をいただき、甘南から二台のジープが私たちの車の前後についた。開拓団総本部の跡は総合病院になっていたが、煙突だけが残っていた。車は更に進み、地道へ入ったと思うと、

「到了(ドウラ)」。

 私たちは、興亜開拓団跡に立っていた。が、どこを向いても昔の面影は全くなかった。青々と広がる水田、満々と水を湛えた水路。近くに見える集落が、孤児を預けた火梨地(ほりで)だと言われても、集落を囲んでいた土塀は取り払われて植樹され、各家にはテレビアンテナが立っている。私たちは呆然と立っていた。

「ここが興亜神社の跡です。」導かれた畑の中で、鳥居だったと思われる、この辺では見かけられない御影石の破片(かけら)を見つけた。そしてその辺りの水路の積み石は、学校の礎石だったという。

 その岸辺で慰霊することにし、許可を受けた。用意して来た犠牲者の名を連ねた紙を広げ、酒やお菓子や花を供え、俄(にわか)作りの祭壇が出来た。風でろうそくは灯らなかったが、線香を燻らせ、中国側要人と、遠巻きに集まって来た現地の人の見守る中で、十五分ほどのお経をあげることが出来た。私たちの感激の涙は、小雨となって降り出していた。

「この水田も水路も、土台は俺(うら)らがやったんや」

 誰かが呟いた。もうそれは忘れよう。死んで行ったわが子や仲間たちは、この豊かな土になっている。そして今は現地の人の豊かな生活があった。横暴だった日本人の、せめてもの罪滅ぼしになればと思った。

 もう五キロほど行けば、義勇隊の開拓地だが、どうなっているだろう。北満の六月の長い日とはいえ、もう五時を過ぎ、雨も降り出したので、それ以上の要求は控えた。その開拓地があった南の方も、北西に連なっていた大興安嶺も、今は樹林に遮られていた。

  もう再び来られよう筈もない、第二の故郷。興亜をあとに、車窓から野に咲く花を懐かしく眺めていると、ふと、道端に、「興隆」と記された杭が立っていた。

ホームへ

次ページへ

「生かされて生き万緑の中に老ゆ」目次へ戻る