「満州国」崩壊

  募る吹雪生まる子の父みな兵隊

 昭和十九年は明け、支部長の内田さんは、看護婦の登代子さんと結婚された。その夜、漆崎さんでは男児誕生。新婚初夜の看護婦さんが、取り上げられた。続いて二月初めに大坂さんも男児誕生。

 そのころ私たち夫婦は、団の農場で、鷹西先生ご夫妻から指導を受け始めていた。

 ところが二月に入ってから、開拓団にまで、召集令状がきた。義勇隊の指導員山田先生はじめ、子どもが出来たばかりの大坂さん、新婚早々の内田さんら、ほか十数人に。思いもかけない開拓団員の「極秘召集」に驚き、団は不安と緊張に包まれた。

 農場にいる私たちも、数人の苦力(クーリー)<現地の労働者>とともに働いてはいたが、また、いつくるかも知れぬ召集令状にびくびくしていた。

 私は毎朝、オンドルの焚き口に据えてある大きな釜で、三十頭余りの豚の餌にするじゃが芋を炊き、それを天秤棒で担いで豚舎へ運んだ。そして、飼い葉を切ったり、次々生まれてくる乳牛の世話と搾乳。搾乳は奥さんから教わった。

 奥さんが搾られると、牛は気持ちよさそうに眼を細めているのに、私がやり出すと、教わった通りにしているつもりなのに、牛は尻尾で私の顔をたたき、足踏みして乳汁を受けているバケツを蹴った。

 夫は、苦力たちと馬を放牧しながら、燃料の野草刈りをしていた。

 ある朝、牛舎へ入って行くと、出産予定日を過ぎた牛が座り込んで苦しんでいた。私は、獣医でもあった鷹西先生を呼んだ。先生は、「逆子だ。下の方へ撫で下ろすように、さすってやれ」と指示された。私は教えられたように両手に麦藁をつかみ、無事に子が産まれるように祈りながら、横たわっている牛の腹をさすった。私の体内でも、ようやく悪阻が始まったばかりの胎児が動いていた。やがて陽が沈むころ、ひときわ苦しみ出した牛は、一日中看病していた私を、あの大きな目から涙を流しながら見つめたかと思うと、悲しげに「モーッ」と一声啼き、首をがくっと垂れてしまった。

 そのころから、私の胎児の位置は異常だった。胎児の頭と思える固くて丸いものが、腹の上部にきていた。看護婦さんに訴えたが、どうすることも出来なかった。

 そして五月、農耕にかかろうとするころ、多くの召集令状が来た。鷹西先生にも夫にも。召集令状は赤紙だと聞いていたが、ピンク色だった。ピンク色のものは、三か月召集のように言われていたが、二月に行った人は、帰ってくる気配はなく、音信不通の人さえあった。令状には「極秘」とあったが、それは無理なことであった。

 農場の宿舎は、大所帯の満州人家屋を買収したもので、その半棟には、満州人の家族が住んでいた。彼等は、先生や夫が出立するまでの私たちの行動を、窓の紙に穴をあけて覗き見していた。慌てたり悲しんだりはしておられず、見送ることすら憚られた。

 私が、夫を大きく意識し出したのは、そのときからだった。私の胎内にいる子の父。わが子は私のように、父のいない子にしたくなかった。

 先生の奥さんは華奢な人だったが、働き者で、私や苦力の先に立って家畜の世話をし、農耕をするつもりでおられた。

 と、そこへ鷹西先生だけが健康体でないということで、はねられて戻って来られた。先生は面目なさそうだったが、何はともあれ、奥さんと喜び合った。が、それから一か月も経たぬうちに、先生は高熱に冒された。

「文子(ふみこ)、文子、もう帰るぞ。文子、文子」

 うわ言に奥さんの名を呼びながら亡くなられた。享年三十歳。奥さんは先生の遺骨を抱いて帰国した。ご夫妻のご出身地は北海道だった。

 たった一人、満州人ばかりの中に取り残された私は八か月の身重の体で、義勇隊支部へ帰った。故郷の母は、一人でお産しなければならない私のために妹を寄越してくれた。家屋敷を取り戻せなかった母は、私たちが成功すれば、自分たちも満州へ行く魂胆だった。

 その妹に、舅がついて来た。舅は男手一つで育ててきた一人息子を戦争に取られたくなくて、義勇軍への入隊を許したらしい。その息子が現地応召したものだから、ひと目会いたくて、軍事郵便の「新京××部隊」というのを頼りに、はるばるやって来たのだった。

 新京を隈なく尋ね歩いたところで、もとよりそんな部隊はなく、舅は息子には会えず、畑仕事をしようにも日本のやり方とは全く違うので、屯懇病(とんこんびょう)<ホームシック>に罹ってしまった。字も読めない舅を一人帰すことも出来ず、私は本部へ相談に行き、義勇隊最年少で、しかも舅の隣村出身の人に、羅津(ラシン)<朝鮮半島北部>まで送ってもらった。羅津から新潟まで、日本海に航路があったからである。

 八月二十日、私は女児を出産した。

 私が看取った乳牛と全く同じ逆子になっていて、難産だった。涙を流して死んだ牛の顔がちらつき、私も死ぬのではないかと思いながら眠っていた。故郷へ帰りたいなどとは思ったこともなかった私が、故郷へと一生懸命広野を走っていた。

「ねえさん、ねえさん<私たちはお互いにねえさんと呼び合っていた>」と、遠くで私を呼んでいる。それでも私は走っていた。

「ねえさん、ねえさん。」私を追いかけて来る声が近づいて来るので、ふと振り返った。

「眠ったらあかん」「眠ったらだめよ」

 私の枕元には、妹のほかに大坂さんも漆崎さんも座っていて、私の頬をぴたぴたたたいていた。看護婦の内田登代子さんは、破水して三日経っても出て来ない胎児に、紐をかけて引っ張り出そうと思われたそうだ。だが、小さな命は懸命に生きようとしていて、足の指先から出て来たという。この世に生を享けた清美だった。

 母子の無事を見届けた看護婦さんは、その場に倒れ、遠い甘南の病院へ運ばれて行った。

 こうした医師もいない北満の果て、次々と男たちは戦争に取られて行く開拓地へ、日本国内の爆撃から逃れて来る人や、花嫁になって来る人がいた。そして女たちは身ごもり、慣れない異国の地に取り残されていった。

 ついに昭和二十年春には、義勇隊隊員三人、女子十三人、幼児は八人になった。そして、家畜や馬が盗まれるようになった。男手がなくなれば、馬は以前にもまして重宝な働き手だった。

 そこで、男たちが残して行った小銃を持って、夜警に立つことにした。黒々と連なる大興安嶺、狼の吠える声に怯える犬の遠吠え。いつ、その辺の草むらから賊が現れるやら。女が重い銃を持って立っていたところで、襲われたら一もニもない、無気味な怖い歩哨だった。

 そして、その五月、五か年計画で進められていた水田工事が完了した。その開墾のため、トラクターを動かしていたのは、白系ロシア人で、空き家になった義勇隊宿舎に寝泊まりしていた。私たちは、オンドルに焚く野草刈りも十分に出来ず、オンドルの上で寒さに震えていたが、彼らは作業が終わると、オンドルに重油を赤々と燃やし、軽い服装になって楽器を奏でていた。

 それに比べて、水路工事の人夫をしていた百人ほどの苦力は、積み上げた野草の中にもぐって、野宿していた。その苦力を指揮していたのは、二十歳そこそこの日本青年だった。故郷を恋しがり,義勇隊の集落へよく来ていたが、工事が終わるころ、その青年も応召した。

 水路に初めて水が通る日、土を盛り上げただけの水路は、いつどこが決壊するかも知れず、私たちは土嚢(どのう)を携えて徹夜で見張った。畚(もっこ)を担ぎ、つるはしを振るい、橋も架けた。広大な水田作りをわずかな女手でやり始めた。この水田作りのため、近くに朝鮮の人の集落も出来ていたので、私たちは、その人たちのやり方を真似て、籾のばら蒔きをした。義勇隊に男が大勢いたころは、彼らに随分、無理難題をふっかけたこともあったのだがーー。

 そのうち、七月になったある日、開拓団の上層部から、視察に来られた。そして、治安の悪くなった開拓地の、しかも本部から離れた所に、若い女性ばかりおくことは危険だということで、本部へ終結するよう命じられた。本部には、応召した幹部や本部員の宿舎が空いていた。

 祖国の戦況は何も知らなかったが、八月九日の、ソ連との開戦は知らされた。そして八月十四日、わずかに残っている男をかきさらえるように、召集令状がきた。私たちは、かつて夫の応召の時にも見せなかった涙だったが、そのときは大声をあげて泣きながら、見送った。ところがその人たちは、十五日の夕方、戻って来た。異国の地とはいえ、銃後の私たちの取り乱した悲しみ方に、その人たちは応召拒否したのだろうか。私たちは「非国民」に、という思いが、私の脳裏をかすめた。だが、その人たちは拉哈までは行ったが汽車は動いておらず、街なかの雰囲気が異常だったという。翌十六日の本部内の緊迫した空気は、その現実を私たちにどのように伝えたらいいか、検討されていたのかも知れない。十七日の夕方。

「嬉しいことを知らせに来ました。戦争は終わったのです」

 本部の方が、少しも嬉しそうでない沈痛な面持ちで、私たちの宿舎へ知らせに来られた。

「日本は勝ったんですね」と、口を揃えた。

「無条件降伏です。天皇陛下が無条件降伏を宣言されたのです」

「団長、私たちはどうなるのです。これからどうすればいいんです」

 私たちは団長に掛け合いに行った。

「もうじき加藤完治(満州開拓創始者)先生が飛行機で迎えに来てくれるやろ」

 冗談とも真面目ともつかぬ、団長の返事だった。

ホームへ

次ページへ

「生かされて生き万緑の中に老ゆ」目次へ戻る