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私の青春 昭和十三年二月、父は死んだ。それまでに父の妹も三十九歳の若さで頓死し、祖母は七十五歳で亡くなった。兄は、患っている父にまで暴力を振るうようになったので、父は兄を勘当した。不自由な足は治らないまま、兄は東京の遠縁を頼って家を出ていった。東京で何をしていたのかは知らないが、その数年後、遺骨となって帰って来た。私をいじめた兄ではあったが、今思うと哀れな短い一生だった。
昭和十二、三年ごろ、Y工場へ、私と同級生の静ちゃんが、高等科を卒えて入って来た。そのころ、静ちゃんが地紙を漉いて、私がその上へ模様をおいていた。その紙を圧搾して、板に張りつけ乾かすのが、Kさんの仕事だった。そのKさんが私を好いているなど、少しも気づかなかった。 二階の乾燥場には、Kさんのほかに七郎さん、己信(みのぶ)さんがいて、三人は徴兵検査を前にした、同い年だった。七郎さんと己信さんは、私が日に何回も取りに行く布(紙の間へ敷く)の間へ、ふざけたことを書いた紙切れを挟めておいて、私たちを笑わせたり、怒らせたりしていた。そして二人とも、冗談のように言っていた。 「兵隊に入るとき、別れを惜しんでくれる彼女が欲しいなァ」 けれども、Kさんは何も言わず、人が言うと「ニヤッ」と笑うだけで、仕事のほか余念がなかったかに見えた。 それなのに、徴兵検査がすむとすぐ、Kさんは人を立てて、家の方へ私をもらいに来ていた。彼は幼くして母親を亡くし、父親は長年中風を患っていたが、亡くなったばかりで、真面目で評判の孝行息子だった。わが家でも父は亡くなっていた。母は、私に有無を言わさず承諾し、婚約してしまった。私はそれまで彼のことを何とも思っていなかったのに、それと同時に嫌いになった。 物心ついたころから、自分を抑えに抑え、厳しい父母に従ってきた私は、その真面目で親孝行だというのが嫌だった。 Mさんは、ある人の落胤と囁かれていた。彼の母親はMさんを身ごもったまま、別の人に嫁いだのだった。だから、私と同じような境遇にある筈なのに、彼は奔放に振る舞い村の不良仲間にまで入っていた。 仲間たちと武生の街へ遊びに行き、夜陰に乗じて、店の看板を取り替えたり、標識を移動させたりしていたらしい。二、三日ブタ箱(留置場)へ入れられていて、きまり悪そうに出勤してくる。私はそんな彼が好きだった。工場でのMさんの仕事は、紙の原料をビーターという機械で粉砕し、それを晒したり染めたりして、私たちの紙質を作っていた。 その彼も、私に好意を寄せるようになり、手を温める手桶の湯が冷めるころを見計らって、熱い湯を入れ替えに来てくれた。また、絶えず眼がこちらを向いているので、私の紙質がなくなれば、声を出して言わなくても、眼で分かってくれた。そうなると、同僚たちにも気づかれ始め、ましてKさんは、穏やかではない視線を送ってきた。私はそれを意識しながら、Mさんの方へ笑顔を向けていた。 時は、日中戦争の最中で、南京陥落だとか、武漢三鎮占領だとか、戦勝に沸いていた。それも郷土の鯖江三十六連隊の脇坂部隊が、一番乗りしたとかで、村では昼は小学生の旗行列、夜は村中総出の提灯行列だった。その提灯行列に、私はMさんと肩を並べて歩いた。たったそれだけのことで私は胸がときめき、かつて味わったことのない幸せを感じた。 しかし、それは村中の噂になり、噂は母の耳にも入っていた。 殊のほか、私には厳しかった母。母はまた、父の死後、村から表彰されていた。それは、村から援助を受けずに、六年間夫の看病をしながら豆腐屋を続け、四人の子どもをそだててきたからということだった。だからわが子には、世間の人から後ろ指を指されるようなことは、絶対させまいと決め込んでいたのだった。そして私も、村の人から「素直に親に従い、おとなしくて良く出来た娘」と言われていたので、母は、私を自分の思うようになると思い込んでいたのだった。母は激怒した。 その上、同じ工場へ勤め始めていた妹まで、私を監視するようになり、同僚たちはKさんの肩を持って、私を白眼視するようになった。 ただ、工場主だけが、Mさんと私が仲良くすることを望んでいた。 わが家では、父が生前、家屋敷を抵当にして、この工場主から、七百円の借金をしていた。母と私たち姉妹は、早くそれを取り戻そうと思って頑張った。そして、ちょうどそのころ、その七百円が出来たので、母が返しに行った。ところが、工場主は受け取ろうとしなかった。 「Mとキクエを一緒にさせてくれたら、ほんな金はいらん」 相手にされなかった母は、悔しがった。 「いくら貧乏してても、娘を七百円で売ったりはせん」 そのころの工場主は、羽振りが良く、全国の紙業関係者にその名を知られ、村の実権は握っており、村のほとんどの人は言われるままに従っていた。が、母だけはちがった。 それで、家屋敷は取り戻すことは出来なかった。 Kさんからは、破談された。私のたんすに蔵い込まれていて、それを広げて見ようともしなかった反物が消え、私の覚えのない五円の金額が、貯金通帳から引き出されていた。 それからの私は、母に反抗することも出来ず、ただ、給料を家の生活費にするために、紙を漉いているだけの空しい毎日になっていった。 戦勝の続いた日中戦争。郷土の部隊が手柄を立てれば、郷土の人が何人も遺骨になって帰ってきた。それに代わって召集令状がきた。七郎さんも己信さんも現役で入隊し、Kさんはしばらくして応召した。そして、この三人は終戦になってもついに帰っては来なかった。 そして、銃後では、戦前から蔓延していた結核があとを絶たず、狭い山峡に工場の煙突が立ち並び、汚染された空気の中で過酷な労働の紙漉き。その上、そのころの粗食。村の若者は、結核に冒されていった。一つ家で二人も三人も肺結核に罹り、永い闘病の末死んでいった。 私の小学生のころは、結核予防週間があって、その撲滅の歌を歌いながら、村中を歩いた。しかし、その行事もいつの間にかなくなり、悪条件を改善しようともせず、戦争と共に労働は一段と厳しくなり、食糧事情は、悪くなるばかりだった。それでも、痩せっぽちではあったが、私は結核には罹らなかった。 「安らかに眠れとぞ思ふ君のため命捧げしますらをの友」 これは「誉れの家」(戦死者の出た家)へ賜った、皇后陛下の御歌である。この御歌を記した色紙は、真ん中に菊の紋章の入った立派なもので、この紙も宮内庁からの注文で、私たちが漉いた。吟味に吟味を強いられ、工場主からやかましく言われながら、紙質の調合や色合わせに苦心しているMさんを、私は見ながら、彼の視線を避けていた。 その紙は注文が多く、人手は少なく、毎夜十時ごろまで夜なべまでして漉いた。 私は自分の気持ちを何かにぶっつけたくて、俳句や短歌の基本も弁えぬまま、新聞の文芸欄に投稿した。 冷たさを確かめて紙漉き始む あかぎれの手をいたわりて紙を漉く などが活字になり、せめてもの慰めになった。昭和十五年のお開帳のときの献句に、 あねいもと帯締め合うや紙祖祭り の私の句が、「天」に入った。当時の献句者は中年以上の男性ばかりだったので、突然、私などの句が入ったことは、その人たちを驚かせた。 戦争が激しくなるにつれて、物資は統制になり、ぜいたく品追放になって、美術紙は漉けなくなった。母も豆腐屋を廃業した。 昭和十五年、村の中央に大きな工場が建ち、大蔵省管理の下に紙幣抄紙部が出来た。各製紙工場から若者が十人ほどずつ引き抜かれて、その抄紙部で紙幣を漉くようになり、私のもその一人だった。五円、十円、百円の札が、一枚の紙から六枚取り八枚取りにされるもので、透かしの出し方、厚薄の規定がとても厳しかった。学徒動員の挺身隊員らも交えて、男女四百人ほどが、その仕事に従事していた。 紙幣漉くわれも貧しく年暮るる 私が新しい工場へ来てから、Mさんに思いを寄せるひとが現れたことを耳にした。 私は、何もかも忘れたくて、当時、女子青年団に奨励されていた「大陸の花嫁」に応募し、満州(中国東北部)へ行こうと決意した。
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