夕日の沈む満州へ

 母が手をちぎれるほどに振りながら、顔をくしゃくしゃにして、私の乗った列車を追いかけていた。

 戦争たけなわの昭和十八年四月一日、私が満州へ旅立つとき。兵隊輸送優先の列車はごった返しで、座る席はなく、北陸線は、私たちが乗った武生から特にトンネルが多く、耳がツーンとなり、デッキ近くに立っている私は煙に噎び、そして、涙が止めどなく溢れてくるのだった。武生より遠くへ行ったことのなかった私が、見も知らなかった男を夫に決めて満州へ行く。

 母の連れ子として、義理の中で人の愛を知らずに育ち、母が決めた人は好きになれず、愛を求めてようやく得た私の恋。それを許してくれなかった母。その母がーー。

「渡辺校長先生、私は今、女子青年団で勧められている大陸の花嫁になろうと思います。そうした結婚は気が進まないのですが、尋常科しか出ていず、紙漉しか知らない私が、お国のためになるにはそれしか道がありません。どうぞ私を満州へ行けるようにしてください」

 私は、このような手紙を小学校時代の恩師に出した。先生はすぐ県庁へ赴き、県内から満州開拓に行っている十人ばかりの名簿を取り寄せて来られた。ほとんど義勇隊員だった。

 第一次満蒙開拓青少年義勇軍が発足したのは、昭和十三年。隊員の最年長者が適齢期になっていて、冬閑期に家族を招き寄せるために帰国していたのだった。

 これまで、私の気持ちを何一つ聞こうとしなかった母が、親の決めた人を嫌い、ほかの人に恋した私を不良娘のように噂された手前もあって、私の満州行きは許してくれた。

「お前は行ってしまうけれど、これから家どうしのつきあいもあるこっちゃし、近くの人がいいやろ」

 という母の考えから、その名簿の中から、家が一番近い、今立郡の人に決めたのだった。

 写真も見ず、見合いもせず、形だけの結納の日にも、私は男の顔は見なかった。

「姉(ねえ)の婿さんになる人、くりくり坊主で猫んたな<猫みたいな>まん丸い顔やわ。ほやけど義勇軍の人って兵隊さんと一緒やな。座ってても『気をつけッ』の姿勢やで」

 妹が、覗き見しながら言っていた。私は相手は誰でもいい、この土地から逃げ出したかった。

 三月十五日、夫になる人の氏神様で、結婚式を挙げた。彼は満州国の協和服<日本の国民服>、私は当時、標準服と言っていた国防色<カーキ色>の上衣にモンペを穿き、花嫁らしさといえば、パーマっ気のない束髪に白い羽根のかんざしだけだった。履物は雪が降っていたこともあって、彼は長靴(ちょうか)、私は足駄履き。

 参列者は知事代理、両村の村長さんと校長先生、青年団団長ら。みんな国防色一色だった。彼の父と私の母だけがモンペの上へ紋の入った物を羽織っていた。そして頼みもしないのに、写真屋も来ていた。

 やがて、神主さんが出て来られ、妙なことを言われた。

「本来なら、神殿の扉を開けて式を行うのですが、本日は神のお告げにより閉めたまま執り行います」

 参列者の誰も、それを問い質す人はいなかったが、私は、私の身の汚れを神様はお見通しだと思った。紙漉きをしていた私は、凍傷がひどくなると、悪血がそこへ集まってくるのか、生理が止まった。その生理が、式の前夜から始まっているのだった。昔から女の汚れ日には、神域に入ることすら禁じられている。

 包帯でぐるぐる巻いた手で、玉串奉奠をした。

 そのあと、写真屋は二人を撮るため、黒い布をかぶって見ては「もっと傍へ寄って。もっと、もっと」と言いながら撮っていた。二人の間が十センチ余りも離れている結婚写真が、翌日の新聞に載っていた。

 また、満州へ行ってしまうというのに、村のしきたりに従い、隣近所へ挨拶回りをしなければならず、彼には母が亡く、どこかのおばさんについて歩いた。ところが、雪解け道とはいえ、二、三件歩いた所で、私の真新しい足駄の鼻緒がぷっつりと切れてしまった。誰も何も言わなかったが、私は、この男とはうすい縁しかないと思った。

 父一人、寡夫暮らしの彼の家は、膝をついて座るのもためらわれるほど不潔だった。その家に嫁として、十五日間いた。

 いよいよ出立の日、私の村の女子青年団の人たちが、軽便鉄道の停車場まで見送りに来ていてくださったので、私は出征兵士のような気持ちになった。

 彼は新婚旅行のつもりなのか、私を労るつもりなのか、大阪で乗り換えて先へ急げばいいものを、大阪で一泊した。

「あとがつかえていますので、お二人一緒にお風呂へどうぞ」

 などと、旅館の人に促されて、好きな人だったら心が弾むかも知れないが、恥ずかしいというより、どんなに嫌だったことか。

 大阪から下関までの風光明美な瀬戸内海沿線は、要塞地帯になっているので、汽車の窓は閉ざされたままだった。下関からの関釜連絡船は、先を争って乗船しなければならず、私のために乗り遅れてしまい、下関港内で寒い夜を明かした。翌日、釜山へ着くまでの八時間は、魚雷などにやられる怖れがあるということで、救命袋を身につけて船酔いに耐えていた。夕方着いた釜山で、また一泊。私は目的地へ早く行ってしまいたかった。

 翌朝、釜山から乗ったアジア号は、日本のそのころの汽車より大きくゆったりしていた。朝鮮半島縦断は、一昼夜かかった。途中、車窓から見えた桜に、またいつの日、この花を見ることが出来るであろうかと懐かしく眺めた。鴨緑江では夜が明けていて、そこを渡れば安東、もう満州国だった。車内の雰囲気はがらりと変わり、日本語は聞こえず、喚き散らしているような喧噪だった。

 私は、もう彼を夫として頼らなければならなかった。夫は、わが子を満州へ行っている、村の人から頼まれた託(ことづ)け物を届けるため、奉天(瀋陽)で泊まり、新京(長春)で泊まり、ハルビンで降りて、便利屋に頼んでいた。

 私は、行き先はチチハルの奥地だとは聞いていたが、いつになったら着くのか、こんなにもとおい所なのかと心細くなっていた。

 ようやく着いたチチハル開拓会館。そこは開拓団員の宿泊所だった。そこで初めて。大坂さん夫妻に出会った。大坂さんは、私たちと同じ日に結婚し、出立も同じ日で、同じ汽車に福井から乗って来られたのだった。チチハルへは三日前に着いたが、猛吹雪のため足止めされているのだった。大坂さん夫妻とは、以後、親友になり、引き揚げ後、お二人は私の生涯の大恩人になる人であった。

 吹雪が始まると、大坂さんたちは、先発の大車(ダーチョ)<馬車>で行ってしまわれた。その翌日、「行けども行けども果てしなき、どこまで続くか泥濘(ぬかるみ)ぞ」という軍歌があったが、全くその通りだった。私たち数人を乗せた大車は、車輪が半分以上も泥濘にくい込み、馬は足を取られ、鞭を当てても喘ぐばかりで動かず、見渡す限り木一本とてない広野の真ただ中で、立ち往生してしまった。男たちは、通り過ぎて来た蒙古人集落へ引き返すことにした。私は日本から来たままの下駄履きだったが、どうにかこうにか、夫に支えられてついて行った。

 集落といっても泥で固めたような家が、二、三戸くっついているだけだった。そこの屯長(トンジャン)に頼むというより、強引に入り込み、食事と宿を強要した。そのころはまだ日本人は威張っていて、男たちは慣れたものだったが、私は食事どころではなかった。真っ黒に煤けた顔の大きな男が眼をぎょろつかせて、鬼が金棒を持ったように、長い火掻き棒を持ち入り口でオンドルを焚いていた。そして、男も女も辺りかまわず唾を吐き、手洟を飛ばす。

 けれども、彼らのもてなしをむげにしてはならぬと言われ、粟飯と、毛がツンツン残っている豚の皮と一緒に、じゃが芋をどろどろに炊いたものを、少し口にした。そればかりか、便所はなく、家の裏の方へ回って用を足さなければならず、終わらぬうちから、そこに飼われている豚が鼻を鳴らしながら出て来て、始末してしまうのだった。そこに二日ほどいた。

 今度は、トラックが迎えに来た。その中に今立郡出身の人がいた。

「ようこんなとこまで来なったのォ」

 故郷ことばで言われたときには涙が出た。

 トラックは泥濘を避けて、畑の畝の上をコトン、コトンと、しゃくりあげながら進んだ。

「第九次興亜開拓団、第一次興亜義勇隊開拓団本部」と、看板のある所へ着いたのは、もう夕日の沈むころだった。私たちは、更にそこから五キロほども離れた、義勇隊開拓団へと大車に揺られて行った。

「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて」

 私の身に、ひしひしと迫る実感だった。故郷を出てから、十二日目の夜だった。

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