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紙漉き 「めろ(女)の子に学問はいらん、はよいい紙漉きになるこっちゃ」 どこの親も、そう言っていた。 昭和八年、私の同級生五十六人のうち、女学校へ進学したのは七人、高等科へ上がったのは二十人ほどで、大半は尋常科を終えると、製紙工場へ就職した。 私も、Y工場の女工になった。 通知簿にはいつも「栄養丙」と記されていた、痩せっぽちで背の低い私が、大人のエプロンをして、重いゴムの前掛けと白ネルの大幅の前掛けを腰に巻きつけ、高い足駄(あしだ)を履いて紙漉き場へはいって行った。 先輩たちは、私に仕事を言いつけては、教えるというより、私のやり方を見て、「ワッハハハ」と笑った。私は家で厳しい父母からいつも叱言(こごと)を言われていたが、その笑いは、それ以上にこたえた。 工場主は、そうした私を見兼ねてか、ときどき本宅の方へ呼び寄せて、子守をさせた。二歳と三歳の男の子のお守りだった。私は一人を負い一人を乳母車に乗せて、子供が歩いて三十分もかかる学校へと、足が向いていた。 そして、同級生だった人が高等科で勉強しているのを、窓から見ていた。すると、私を受け持ったことのある女先生が来て言われた。 「一日と十五日の工場の休みに、学校へ来なさい。裁縫だけでも教えてあげるからね」 私は、その日になると、学校の裁縫室に座っているようになった。 その年の秋、福井県で大演習があったので、秩父宮様や高松宮様が御成りになり、Y工場を見学に来られた。工場では、宮様の歩かれる所へは白布を敷きつめ、Y工場の特許紙や紙の原料になる物を陳列した。従業員にはそれぞれ得意とする仕事が与えられ、私は楮扱きをした。 村の人は朝早くから道路わきに筵を敷き、男は紋付き袴を着けて正座し、宮様をお迎えした。車に乗られたお姿が近づくと、地面にひれ伏して、お顔など拝することは出来なかった。それに比べて私たちは、工場主に質問されるお声まで耳にすることが出来たことは、何とも光栄なことだった。 その栄誉を一身に集めた工場主は、本宅の庭に「秩父宮雍仁(やすひと) 親王殿下、高松宮宣仁親王殿下。御成記念。昭和八年十月」と記した立派な碑を建てた。 私は、一年経っても、ときどき本宅へ連れて行かれ、子守や女中さんの手伝いをさせられたが、早く紙が漉けるようになりたかった。それで、工場に出て紙漉きの下拵えをしている日は、休憩時間になると、紙を漉く練習をした。そして、職工長に頼んだ。 「私にも、紙を漉かせておくんなはい」 「ほんな小ちゃい体で、小ちゃい手ィしてェ、紙が漉けるかいッ」 職工長に、怒鳴られた。 高等科を卒えて入って来た人は、私の後輩でありながら、先に紙漉きを教えられていた。 私は、紙汁の中へ入れるネリ(トロロアオイの汁)を濾(こ)したり、紙の間へ敷く布を濯いだりした。ネリは大きな手桶の中に天竺木綿の袋を入れておいて、その袋で濾すのだが、袋の入った手桶は三つも四つも並べてあり、滓が出なくなるまで濾さなければならない。手を抜くと、白い紙に針で突いたほどの黒点になって現れた。夏は、そのネリを何回も濾している間に粘りが薄くなるので、たくさん使わなければならない。大きな手桶を持ち上げては濾している私を、先輩の紙漉きさんたちは面白がるように、「「はよ布(きれ)、濯(いす)いでや」とか「ここ流してや」とか、自分たちの汚した所まで、水で流すように言いつけた。 それでも、十五、十六歳になると、小さな紙が漉けるようになり、見よう見真似で、地紙の上へ模様をおくことを覚えた。それはパルプ質の地紙の上へ、光沢のある三椏の繊維を、漉きかけたり、落としたりするだけのものだった。 が、村に数ある製紙工場では、競って、いろいろな模様をさまざまな技法で編み出し、特許をとった。 Y工場でも、工場主がそうしたことに秀でた人で、考案したものを私たちに漉かせた。薬品を入れる分量や、手の動かし方によって、なかなか見本通りにはいかなかったが、私は模様をおくのは得意だった。今もその模様紙は受け継がれ、また改良されて越前和紙と銘打ち、葉書や短冊、色紙などになって市販されている。 私も十七、八歳にもなると、人並みの体になっていて、襖(ふすま)大のものや五尺四方、九尺四方の紙も漉けるようになった。これらは、宮内庁や有名な画家や書家の注文によるものが多く、横山大観、竹内栖鳳、小杉放庵らの雅号を、紙の端の方へ透かしに入れた。書画紙は、主に楮質である。 こうした大きな紙は、二人または四人、六人が向き合って、漉き舟の中の紙汁の中へ手を肘まで突っ込み、紙汁を簀桁の上へ交互に汲み上げて漉く。近年、世界最大の手漉き紙を漉くところを、テレビで放映されたこともある。全国各地に和紙を漉くところはあるが、この漉き方は、越前だけではないだろうか。 豪雪地の北陸越前の山奥。冬の夜、しんしんと降っていた雪は驚くほど積もっている。わが家から二、三分で行ける工場までの道を、バンバ(木で作ったスコップ)で雪をかき分けかき分け、三十分余りもかけて行った。遠くから来る人は、スキーとかるい樏(かんじき)を履いて来た。夏も冬も六時半始業。十分前には身支度をして、自分の持ち場に来ていなければならない。 雪の中を出勤して来ると、漉き舟の中は氷が張り、簀桁は凍りついていて、硝子窓の透き間から雪が吹き込んだ。窓硝子に溜まった水蒸気は凍って、見事な幾何学模様が出来ていた。自然が作り出したいろいろな模様に、歓声をあげ、「この模様は好き」とか「こっちのもいいでェ」とか、めったに買ってもらえない自分の着物の柄に見立て賑やかに話しながら仕事の準備をした。 大人の胸の高さまでもある大きな桶に、調合された紙質をバケツで量って漉き舟の中に入れ、それをかき混ぜて溶解させる。そのやり方は、自分に合った棒<皮を剥いだ楮の木>を一本持っていて、その棒を漉き舟の縁(ふち)へコンと当て、その弾みにのって紙汁の中を真っすぐシュッと引く。その動作を二人が交互に繰り返すと、「コンシュッ、コンシュッ」とリズミカルな音が出て、漉き舟の中は渦を巻き、紙質は溶解していく。慣れないうちはコンと音は出てもシュッといかず、ゴボゴボと紙汁は辺りへ飛び散り、舟の中の水は動かない。九尺四方の紙を漉くときは、大きな漉き舟の周りをベテラン八人が囲んで、「コンシュッ、コンシュッ」と音を揃える。漉き舟の中は眼が回るほど渦を巻き、紙漉きを見る以上に見応えがある。 こうしている間に、蒸気で沸かした湯が小さな手桶に配られ、辺りの凍りも解けてくる。冷たいというより突き刺さるような水の中へ、手を突っ込んで漉き始める。一枚漉いたら、手桶の湯で手を温めるのだが、十枚も漉かないうちに湯は冷めてしまい、手桶の中は紙汁でどろどろになった。 手漉き紙は、こうした、冬の最も水が冷たい時季に漉いたものが最も美しく張りのあるものとされている。 しかし、私は凍傷がひどくなり、十一月ごろから五月ごろまで治らなかった。指先から手首にかけて腫れあがり、だんだん崩れてきて、桁や舟にちょっと当たっても血が滲み出た。包帯を巻けば、紙汁がまつわりついて小さな玉になり、それを漉き込んで苦情が出たこともある。夜、その手が乾いてくるとズキン、ズキン疼いた。また夏になると、水虫で手も足も真っ赤になり、これも乾かすとヒビ割れてヒリヒリ痛んだ。 前掛けから滴り落ちる雫は、着物の裾を濡らし、足駄の爪掛けの中へ入って足袋を濡らした。休憩時間になると、濡れた物を紙の乾燥室で乾かす。暖房装置も休憩室もなかった時代。寒い日は、ついでに乾燥室の中へ身を屈めて入り、真っ暗な中で「××ちゃん、どこにいるのォ」「私はここやでェ」と、呼び合いながら冗談を言ったり、世間話をしたりした。そして、休憩時間が終わる合図の振り鈴が鳴り出すと、乾燥室のあちこちから火照らせた顔が飛び出て来て笑い合った。 休憩時間は午前九時から十五分、昼休みは三十分、午後三時から十五分だった。乳呑み子のある女性はその短い時間に家へ走り、授乳して来るのだった。 ついでに、紙を乾燥させるのは男の仕事である。女たちが一枚ずつ漉き重ねたものを湿(しと)紙という。その湿紙を一夜雫を垂らしておいて、翌朝圧搾台まで運び、何時間もかけて、懇ろに圧搾する。圧搾した紙を一枚ずつ布から剥いで、板に張りつける。その板は、公孫樹に限られていた。生紙を板に張りつけるのは、刷毛(はけ)の持ち方力の入れ方で紙が破れるので、これも熟練するまでは並大抵ではない。
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