7.「戦争を語り継ごう」 ML 京都オフ会     2004年 5月 8日(長岡京市立産業文化会館)

@ 播翁さん(木村繁次郎さん)からシベリア抑留の体験談を聞く                 A 懇親会                                新谷陽子のページ

 感想                         

 2004年春の「戦争を語り継ごうML」オフ会は、地元京都で開かれました。そこでML会員の大先輩である播翁さんこと木村繁次郎さんの貴重なシベリア抑留体験をお聴きする機会に恵まれました。当時大学1年だった娘もその友人も、大学のイベント参加をキャンセルしてでもこちらに参加してお話が聞けたことを大変喜んでくれました。

 当日録音させていただいた講演記録テープは、まずは母に聴かせました。母は、木村さんの若々しくお元気なお話しぶりにずいぶん励まされ感動したようで、お話の内容についても一つ一つ頷き、自らの体験と照らしながら思い出すことが多くあったようでした。

 以下に、その時お話いただいた中のシベリア抑留体験の部分を、ご本人の承諾を得て記録させていただきました。
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 私は、昭和16年以降、旧満州のチチハルで航空隊下士官としての任務を果たしていたが、昭和20年8月ソ連参戦後のある日、「抵抗しながら南下せよ」との命令が下された。8月20日頃には武装解除があり、9月に入った頃、ソ連の捕虜となった私たちは「日本に帰らせてやる」というので、米などの食料品を身体に詰めるだけ詰めてチチハルから荒野に向かって歩き出した。まる1日野営をしながら徹夜で歩かされた頃ソ連兵の通訳から、日本には帰れずこれからソ連で仕事をする覚悟をしないといけないということを知らされた。その後半月以上列車に乗せられ、その間ほとんど水は飲めず麩のようなものばかり食べさせられた。そしてやっとバイカル湖に着いた。9月とはいえもう雪が降っていた。ロシア人の囚人もいたのを覚えている。そこで黒パンとおつゆのようなものをやっと食べさせてもらえた。

 翌日調査官に「おまえは自動車整備工場に行け」と言われ、その任務に就いた。捕虜たちがバーム鉄道の道路作りに、丸太を切り道路にする作業の中、手の器用だった私はそこで使われる自動車の修理にあたらされた。

 でも冬はマイナス30度・40度にもなる酷寒の土地。多くの捕虜たちがここで死んだ。死なない者も、いつ自分の番が回ってきてもおかしくない過酷な生活なので、捕虜同士髪の毛などを交換し、生き残ったら日本の家族の元にいくよう言付け合った。でも捕虜が死んでも埋葬もままならなかった。自分たちは日本の習慣どおり死人には一番いい服を着せてやりたいのに、ロシア兵は「もったいない」と言って着させてやってくれなかった。

 夏は、バーム鉄道の機関車の火の粉が飛んで山火事が多く、捕虜たちはよく火事を消す使役に出された。といっても叩いたり草を刈ったりするという原始的なものだった。

 食べ物は馬鈴薯のスープがよく出た。お腹がすいてたまらないので、ロシア人の食べない数の子を溜め込んであとで少しずつ食べた。でも塩分がきついので身体がよくむくんだ。青い草を見つけたらどんなものでも食べた。最初はひどい下痢をしたが、だんだん慣れてきていつしか「餓鬼」のように何でも食べた。ロシア人将校が捨てたタバコにみんなが群がり、順番にむさぼり吸った。その日に生きていてもあくる朝起きてこず、よく見たら死んでいる友が多かった。そういう人を、楽に死ねて羨ましいとも思った。それほど、朝また起きて苦役に着くのが辛かった。かといって自ら死ぬ勇気もなかった。

 風呂は、形としてはサウナ風呂に似ていた。お湯はなく、焼かれた岩に水をかけて出る蒸気を、早くて1週間に1度あてられた。病気が蔓延しないようにという配慮だったのだろう。2週間以上空けられることはなかった。ノミ・シラミは友達のようなもの。いつも一緒だったが、これも病原菌の蔓延を避けて、たまには衣類や布団・毛布を天日干しさせてくれた。

 急性肺炎で入院したこともあった。高熱でもまずは身体中の毛を剃られシャワーを浴び消毒させられた。槍で刺されるような痛みが続いた。日本の軍医さんがアスピリンやリンゲルを太ももに注射しパンパンに腫れあがった。病院食は日に4回。しかし、病院の中でも先輩をたてて食事を回さなければならなかった。病気になると比較的待遇が良くなったが、決して「人権尊重する」という意識ではなく、ただ後でまた仕事をさせるための扱いに過ぎないと感じた。

 そんな中でも無事回復し、帰国のチャンスがやってきた。でも引き揚げ船のタラップで2度も騙され、3度目でやっと本当に帰国できることになった。この3度目の時は前日から本当に明日帰れるのか随分疑った。でも今度こそ本当に帰国できると分かった時は、タラップに上っていく時に「これで帰れる。お母さんに会える」と思い涙がボロボロ流れた。そして乗船した途端、力が抜けてゴロリと船内に横になった。

 舞鶴に着くとDDTを身体中に撒かれ、思想調べはことさら厳しかった。

 戦争は狂気だ。戦争に行く者は死ぬ覚悟で行っている。戦場に行ったら生きていくためにはエキサイトして犬畜生になることもある。ルールもなくなることもある。

 本当は趣味の社交ダンスの話など、気楽な話をしていたい気もする。でも「戦争を語り継ごうML」のみなさんに励まされ、誰より孫やひ孫が私のこういう語り部活動を応援してくれている。ひ孫は8月15日生まれだ。彼女が「8月15日はどんな日や」と聞いた時、私は「戦争が終って平和になった日。日本が生まれかわった記念すべき日なんやで」と言うと、大変喜んでくれた。

 こうしてシベリア抑留体験をお話するのは、自分の使命感からではない。何か自分の内面から突き動かされる力に従って続けている。

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 このように、木村さんのお話は、実際の体験者ならではの内容で、まだまだ学ぶべき戦争の・戦場の真実があることを痛感しました。多くの戦争体験者は真実を覆い隠したまま亡くなっていかれると聞きます。木村さんも自らの体験を語る中には、封印しておきたいお話もおありだったかと思いますが、あえて語ってくださったことに心から敬意を表します。自らの体験を踏まえて反戦平和の思いを語り継がれているからこそ、説得力をもって私たちに迫ってくるものがあるのだと思います。どうかこれからもお元気で長生きしてくださって、MLでも大いに語り継いでくださるよう切に願っています。

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