6.「戦争を語り継ごう」メーリングリスト(ML)神戸オフ会(オフラインミーティング) 2003.8.7 @ 神戸ポートタワー展望台より、神戸港を見ながら、戦時下の強制連行について説明を受ける・・・ガイド 飛田雄一さん(神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する
会事務局長、神戸学生青年センター館長) |
2003年8月。私にとって神戸への日帰り旅行(京都の南端から往復4時間!)はかなりハードスケジュールでしたが、初めて会う「戦争を語り継ごうメーリングリスト」の会員のみなさんと過ごせた半日は本当に充実した楽しい時間でした。参加人数が少なかったことは残念でしたが、体験世代から受け継ぐ世代まで和気あいあいとした、アットホームな集いになりました。 今回、戦没した船と海員の資料館を見学できたことも大変貴重な体験となりました。入館した時の、あの衝撃的な一瞬は忘れられません。そこには壁いっぱいに貼られた無数の沈没船の在りし日の写真と解説があり、その迫力に圧倒されました。写真一枚一枚に刻まれた戦死者の数と沈没の日時。軍艦群以外にあれほど多くの徴用船舶が容赦ない電撃と空爆で沈み、その中にいた人たちのほとんどが、なすすべもなく海の藻屑と消えていった。・・ここまで無謀だったあの戦争はいったい何のため、誰のためのものだったのか?本当にひどい戦争の真実を、一瞬にして見せ付けられた思いがしました。 展示された沈没船の解説の一例を以下に挙げます。 対馬丸(日本郵船)6754総トン 昭和19年8月22日午後10時12分ごろ 南西諸島悪石島の北西6・7マイル付近 米潜水艦ボウフィンの雷撃により沈没 疎開学童 682名 一般疎開者 802名 船砲隊員 21名 本船乗組員 24名 計 1529名 死亡 沖縄が間違いなく戦場になる、そう判断した政府は、昭和19年7月急遽沖縄県下の市や郡と国民学校長あてに『学童集団疎開準備』に関する通達を出して、本格的に内地への緊急疎開の実施を促した。対馬丸の遭難事件は、こうした状況下で発生した。昭和19年8月21日18時35分、疎開学童と付き添い人1661人を搭載した本船は那覇港を出港した。22日になると海上は台風接近の前ぶれでウネリが高くなってきた。その夜22時子供らが眠りに陥ったその時、本船の左舷80度方向から2発の魚雷が一・二番倉を食い破り、ついで20秒後今度は右舷方向から2弾の魚雷が五番と七番の船倉を破壊、船体は急激に傾き22時23分船首を高く天空に向けて沈没した。かくして多数の学童・付き添い人は脱出もできないまま船と運命を共にした。また辛うじて海上に逃れた者もシケ模様の海に翻弄され、救助船の遅延も重なって多くの犠牲者を出した。 このように沈没当時の状況が克明に記され、他にも、海に散った船員の家族との写真や遺書なども展示され、海底深く沈められた彼ら・彼女らのうめき声や無念な思いが、ひしひしと伝わってきて、胸が詰まりました。 「戦争を語り継ごう」ML会員さんの中に「戦時下に喪われた日本の商船」というホームページを管理しておられる方がおられますが、まさにこの資料館のインターネット版と言えます。この資料館とともに、多くの人に訪ねてほしいサイトです。 |