2.地図から消えた「満州」を問う

                2001年 9月23日 (於:京都教育文化センター)

  第1部 朗読と映像「三千の屍体の中から」−平頂山事件−

  第2部 記念講演「私は引き揚げ少年だった」−心と体に刻まれた歴史

                                                          −講師 坂本龍彦さん                          新谷陽子のページ

 感想

 2001年の暑い夏も過ぎ、秋晴れの心地よい陽気になった9月下旬の頃でした。私は、いつもの秋なら、あの青空や乱れ咲くコスモスに言い知れぬ安らぎを感じるのに、この年は例のテロ事件以降、気持ちのどこかにずっと暗雲が立ち込めたような思いがありました。そんなある日、何気なく眺めていた朝日新聞の小さな記事にふと目が止まりました。

 それは「柳条湖事件から70年 戦争加害問い『集い』」の見出しで、満州事変の発端となった柳条湖事件から70周年を迎えたのを機に、坂本龍彦氏の講演などを通じて日本の侵略を後世に伝えようと、京都府内の平和団体が企画しているという内容のものでした。

 坂本龍彦氏の著書はそれまで何冊も読んでいましたが、彼はその中でいつも「戦争の真実を語り継ぐ」という点で、被害の立場ばかりでない「加害の立場」での日本人の反省も、しっかり語っておられます。それで、ちょうど自費出版したばかりの母の著書「大陸の花嫁」をご一読いただこうと思っていたところでしたので、できたらこれを機に直接お渡ししたいと思いました。

 でも、この集会に参加しようと思った理由はもう一つありました。それはちょうどその2・3日前に、中国の大連で暮らしている私の従兄弟から以下のようなメールが届いたからです。

 「・・・・あのテロから1週間が過ぎ、事態はますます常軌を逸する方に進んでいるようですね。この狂った流れを押し止める動きが期待できそうなのは、国としてなら中国かと思っていますが、昨日は満州事変(勿論この言い方は日本だけ)70周年でした。毎年のことですが、テレビでは1週間ほど前から関連番組が放送され、一昨日は盛りだくさんでした。テレビをつければ当時の残虐行為の映像が映っているといった感じでした。各地にある記念館でも関連行事があり、人々は記憶を新たにします。被害者側の様子です。加害者側の日本では何かありましたか?大多数の人が思い出しもしないのではないでしょうか?(私も中国にいなければそうですね)被害者側が毎年毎年記憶を深め、加害者側は忘却の一途。教科書問題はこんなところが原因ではないでしょうか?・・・」

 私は心を動かされました。何としても参加しなければと、出にくい家庭状況の中で段取りをつけました。

 第一部は、抗日戦争を抑えるため旧日本軍が約三千人の中国人村民を虐殺したとされる、平頂山事件を題材にした「三千の屍体の中から」の朗読。かなりショッキングなものでした。でも、紛れもない日本の加害の史実として、真摯に受け止めなければならないと思いました。

 そして第二部の坂本龍彦さんのお話からは、体験者でなければ決して伝えられないであろう「戦争の真実」が生々しく伝わってきました。坂本さんは、どちらかと言うと静かな語り口調でいらっしゃるのに、その中からはほとばしり出るような熱い「反戦と平和への願い」が感じられ、胸が熱くなりました。 また、坂本さんのご体験は、母のそれと重なるところも多いのですが、彼の場合は、ガンガンの軍国主義教育を満州の現地で叩き込まれておられます。しかも感受性と好奇心の極めて高い軍国少年でいらっしゃったのだから、満州で敗戦を迎えたことはまさに青天の霹靂。肉体的な苦痛をはるかに上回る、大きな精神的ショックをことごとく味わわれたことが、痛いほど伝わってきました。「植民地支配とは、こういうものなのだ」「戦争で負けるということは、こういうことなのだ」と。

 その上、坂本龍彦さんは四十年近くの新聞記者生活のご経験からでしょうか。膨大な資料を読み、調べなおし、あの戦争で当時の日本が、国家としての判断が誤っていただけではなく、史実を大きく歪めるような酷いでっち上げ政策や、同じ日本人の人権をも踏みにじるような信じられない悪事を、「国家として」行っていたことをも、しっかり暴いておられます。本当にすごい方だと改めて思いました。

 坂本龍彦氏の著書の中には、満州移民・引き揚げや中国残留日本人孤児問題に関するものが多く、中でも『じいちゃんは引き揚げ少年だった』『証言 冷たい祖国』には大変感動しました。また「読書記録」」の方で感想を書きたいと思います。

 素晴らしい集会に参加でき、深い感動を覚えた最後には、集いの事務局長さんのおはからいで、坂本さんに直接お話でき、その場で母の本もお渡しできる機会が得られ、本当に光栄でした。

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