17.大阪俳句史研究会 1月例会

 「井筒紀久枝 人と作品」 について  

(主催:大阪俳句史研究会 2006年(平成18年)1月28日 於:伊丹市柿衞文庫                             新谷陽子のページ

感想 

私は2006年1月、大阪俳句史研究会によって、母の戦争体験と俳句について発表する機会を得ました。本当は母本人が話すのが一番だったのですが、ここ数年臥せっている母はもう語り継ぐ体力はおろか、外出することもままならなくなりましたので、娘の私が母に代わって話すことにしたのです。

娘の私の話となると、体験者自らの肉声の力に比べずいぶん迫力が欠けるだろうと少し不安でした。でもこの会の趣旨が、「残しておきたい俳人を記録することを目的にして」おられ、「次の世代がどう語り継いでいくか」という課題のもとに活動しておられることを知り、そのような貴重な会に一庶民の母を取り上げて下さるなんてまたとないチャンスだと思い、喜んでお引き受けしたのです。以下は、その時の主な内容です。

1.井筒紀久枝 主な作品紹介

@ 自分史「生かされて生き万緑の中に老ゆ」(1993年 生涯学習研究社)

これは母が七十年余りの人生を振り返ってまとめた半生記で、母の人生の集大成とも言える著書です。ですから、母の自分史(生活史)と俳句を語るには、この作品に添って話をしていくのが一番お話しやすいと思います。また、これは「NHK学園三十周年記念自分史文学賞大賞」を受賞した作品です。

内容は、前半は主に母の生い立ちを綴っています。戦中戦後の時代を生きた庶民は多かれ少なかれ苦労を重ねておられると思いますが、母の場合物心着いた幼少の頃から、想像を絶するような苦難が続きます。母親の連れ子として育った母はママ兄からのイジメだけでなく両親からも親戚からも、ひどい虐待を受けます。こんなひどい目に遭わなければならない「私はいったい誰の子か」という疑念を常に心の片隅に抱き続けた母でした。が、これは自分史の最後の部分で思いがけなくも明かされます。娘の私もこの作品を読んで初めて知りました。でも誰よりも母自身がこの自分史を書き始めて三年目に、身内から初めて自らの出生の秘密を明かされるわけですから、驚愕したのは当たり前です。

また、母が俳句を作るきっかけとなったのは、なんと言いましてもこの前半の幼少期から青春期の生活苦です。いわば「生活苦」を詠んだ「生活句」です。そのいたたまれない境地から何とか抜け出たくて、捌け口を作句活動に求め、また満州へ渡る一大決心をしたのです。
 自分史「生かされて生き万緑の中に老ゆ」は1993年「ラジオ深夜便」と「私の本棚」で朗読され大好評となりました。当時NHKラジオ深夜便の名アンカーマン、日野直子さんの朗読は抑制が効いているだけとても実感がこもっています。(当時の録音がカセット版「生かされて生き万緑の中に老ゆ」として
NHKサービスセンターにて販売されています。)
 その後は、いよいよ過酷な労働「紙漉き工」の生活が始まるわけです。「略年譜」のとおり、十三歳の春に岩野製紙工場に入社するのですが、痩せっぽちで身体の小さかった母は、大人のエプロンを掛けてゴムの前掛けの上に、さらに白ネルの前掛けをして高い下駄をはいて、逞しい大人の紙漉き職人たちの中へ入っていきました。紙漉きは身体がある程度大きくならないと漉けないので、当初は力仕事の雑役ばかりやらされて辛かったと聞いています。
 そして、こういった生活の苦しさや実らない恋愛、そして大失恋をする訳ですが、小さな村の中では非難やうわさが一気に広まり、さらに居てもたっても居られなくなってきます。そして一大決心「大陸の花嫁」を選ぶことになるのです。ここからの部分は「大陸の花嫁」に詳しく書かれていますので、次はこの作品紹介に移らせていただきます。

 

A 戦争体験記「大陸の花嫁(2004年 岩波現代文庫)

これは自分史「生かされて・・」の中にも書かれている、母の戦争体験の部分を十年後にさらに詳しく、自身の反省も踏まえて書き綴ったものです。岩波書店より句集「満州追憶」も併禄して出版していただきました。同じ引き揚げ体験を持っておられるジャーナリストの坂本龍彦さんが、強く母の作品を推薦してくださったおかげで「岩波現代文庫版」が実現したのです。 「まえがき」には母自身の出版への強い意志を表しています。

 

「大陸の花嫁」―まえがきー
  私は自分の父を知らない。母は不倫をしたのか、強姦されたのか私を産んだ。今の世であったなら、

 胎児のうちにつみとられたであろう私の命。母はその私を連れ子として貧しい家に嫁いだ。私はその家で母からにまで虐待を受けた。
 私は人の愛を求め、人を恋した。それも許されはしなかった。
 私は大陸の花嫁になることを決意。戦時中の国策に従い、満州開拓の一人になったのである。当時、大陸の花嫁になった私の目から見たものは、日本人の横暴さと、「メィファズ(しかたがない)」と諦める中国人のおおらかさであった。それは日本国敗戦で逆転した。
 阿鼻叫喚の満州から生きて帰ってきた私は、八十歳の今、まだ生かされている。命のある間に自分の戦争体験と、満州に取り残された中国残留日本人孤児と残留婦人のことなど、後世に伝えておくことが私の使命のように思われてきた。
 娘の協力と周囲の人の励ましを受けて八十の手習い、昔の記憶を辿りながらワープロに向かった。自分史とも言える私個人の戦争体験である。
 幼稚な文章だが是非読んでもらいたい。

 

このように「まえがき」で本人も述べていますように「大陸の花嫁」は主に戦中から戦後にかけての母自身の戦争体験記です。前半は、「大陸の花嫁」に応募して渡満した後の「満州開拓団」での話を中心に進みます。「何もかも忘れたくて」写真一つで相手を決め結婚した母は、待望の「大陸の花嫁」になって旧満州(現中国東北部)へ渡りますが、開拓団の穏やかな生活はほんのつかの間。敗戦色が濃くなってきた昭和十九年頃からは、筆舌に尽くしがたい悲劇が母を含めた開拓団員を襲います。敗戦前の開拓団員への「極秘召集」で母の夫も妊娠八ヶ月の身重の母を置いたまま戦場へ連れ去られます。昭和十九年八月二十日、母は女児清美を出産しますが、彼女が一歳を迎える前に敗戦。夫を召集された女子供ばかりの中、残った男性を中心に「自決組」と「自決反対組」に分裂して対立します。このあたりからもう、まさに地獄絵図のような修羅場が続きます。
 この後は、連日連夜ソ連兵や匪賊の襲撃にあい母たちの興亜開拓団は滅びてしまうわけですが、死者が続出する中奇跡的に生き残り、酷寒の中を越冬し、今度はチチハル収容所での死と隣り合わせの生活が始まります。この部分は坂本龍彦さんの左記文章に簡潔に紹介されていますので一部転載します。

 

戦争と女性『大陸の花嫁』のたどった道

          坂本 龍彦(『朝日新聞』元編集委員)      

◇皮膚をかぶった骸骨 

  そして、戦況は何も知らず日本は勝つものと信じながらの敗戦。開拓団では自決組と自決反対組に分かれた。関東軍の主力はソ連侵攻までに朝鮮国境方面に南下撤退しており、前線に取り残された開拓団対策を聞いた満州国政府の役人に関東軍側は「彼等(開拓民)は自殺するしかない」と述べた、と記録されている。

  紀久枝さんは国民学校(当時の高等小学校の名称)の坂根先生をリーダーとする自決組だった。八月二十日午前十時、校長の銃で「殺していただく」ことを予定し学校に集まる。この日、満一歳の誕生を迎えた娘・清美さんに紀久枝さんは言った。「せっかく生まれてきたのに、初めての誕生日に死ぬことになってしもうて、かんにんな。お母ちゃんと一緒に死のうな。」白鉢巻を子にも締めた。

  しかし、開拓団長は強く集団自決に反対し、翌二十一日、坂根校長の一家六人は自決を決行した。生き延びたものの地獄の日々が続く。

  ソ連兵の略奪と女漁(あさ)り。原住民の襲撃に備えて「長い草刈り鎌や手製の槍をもって夜警に立った。」十月九日、夜襲で多くの人が捕らわれ、殺され、怪我人や病人が天井裏にかくまわれていた学校にも火が放たれ、興亜開拓団は滅びた。

  興隆開拓団の人たちと一緒になり、大都市のチチハルに出て難民収容所に入った。「重なり合うように寝ている収容所では伝染病が蔓延し、栄養失調の体を冒していった。髪は抜け落ち、皮膚を被った骸骨そのもの、それでもみんな生きたかった」「人は痩せ衰えて死に、シラミとノミのみが丸々と太り、うようよと殖えていった」「そんな中で孤児が売買された。あたかも品物を買うように」。

(以上 隔月刊「社会保障」NO.379 2001年冬号掲載記事より一部抜粋)

 

こうして「何としても生きて帰る」という強い帰国の望みを抱き続けた母は、その後も苦労を重ねて何度も死と直面しながらチチハルを出発。21年10月に、やっとの思いで佐世保に上陸します。でも、引き揚げ途中でみるみる衰弱していった清美は、引き揚げ船の中で百日咳に感染し、帰国後も苦しみが続きます。このあたりの描写は、何度読んでも涙で文字が見えなくなってしまいます。
 同じ母親から生まれてきた女の子でも、私は戦後の平和な世の中で生まれ、何の不自由もなく、心から笑い心から歌い、美味しいものを食べ、恋もし、子供を生み育てる喜びも味わい・・人間のあらゆるプラス感情をことごとく味わい今に至っているのに対して、一方戦争の真っ只中に生まれた清美は、同じ母親から生まれた女の子でも、苦しんでやっと生まれ落ちたら逆子。生まれ出た後も既に父親は戦場に取られ一歳で敗戦、その後はまさに地獄のような苦しみと痛みと飢えと怖ささみしさといった、あらゆる人間のマイナス感情をことごとく味わい死んでいかなければならなかった。こんな理不尽なことが、こんな不条理なことが、同じ人間の生の中にあっていいのでしょうか・・。
 1946年10月、帰国するまで母が守り通した2歳の清美は栄養失調が治らず、翌年1月9日の寒い朝、亡くなります。
 帰国後、母は一時でも帰国できた感慨にふけることもできたでしょうが、清美の幼い心は戦争をまだ引きずっていました。平和が戻った日本の故郷に帰ったはずなのに、何かのお祝いの花火の音をまだ銃声に聞こえるので「はよはよ(早く早く)」と母の背をたたいて「早く逃げるように」母を促すところなど、戦争の非情さをまざまざと見せ付けらます。戦争というものは、とことん弱いものにとってはとことん残酷なものだということを思い知らされます。
 そして、夫はその後復員してくるのですが、娘という絆もすでに失い、その他いろいろな苦労が重なって母は離婚してまた紙漉き女工に復帰します。
 母の作句活動は、こんなころから始まるわけです。これまでの苦労と怒りと悲しみと、持って生きようもない辛さを何かにぶつけたくて作句を始めました。日々の空しさと、紙漉き生活のきびしさを十七音のことばにまとめ、俳句の基本もわきまえぬまま新聞、ラジオ、雑誌などの俳壇に手当たり次第投稿しました。引揚げ後は、昭和28年8月まで、自己流の俳句を作っていましたが、これを「寒雷」へ導いて下さったのは、当時主に「水の職場」を詠んでおられた飯田 旭村  ( きょくそん ) 先生でした。また、後日母の句集を刊行してくださった詩人 則武  ( のりたけ ) 先生に出逢ったのもこの頃でした。
 紙漉き時代の句は、当時新聞等に掲載されたものと、後日『寒雷』『杉』などに属してから少女時代を思い出すままに記して投稿し採用して頂いたものを、後年俳句集にまとめました。それが、次に挙げる「望郷」です。

B 句集「望郷」1977年 北荘文庫)

小序(詩人則武 三雄  ( かずお ) 氏の言葉)より
 岩野家へ行った際、「紙を漉いている俳女として山口紀久枝があるが、あなたの漉工場ではないか」と質問すると、直ちに紹介された。(当時は山口姓)
 何月であったか、彼女は毛糸のセーターを何回か掻き合わせた。黄系統であったのを回想する。
 その次に邂ったのは、否邂逅していないのだが、紙漉きを、漉く過程を直接句作したものは、余人はあっても彼女の句稿を随一とする。
 もと岩野製紙場から生まれた生えぬきの作家である。
 以来、何年か経過して、昭和四十三年の宮中歌会に彼女は選ばれる。「川」の御題に・・・。

  どの家も紙漉く夜なべ終えたらし峡をながるる川音きこゆ  

彼女の追懐、それこそ峡や河を流れるものであっただろう。
  ヒビが切れると裏の山に登って草を採って来て練って着ける簡単な生活、そこから生まれた作品の
  純粋さは永く記憶されるべきだと確信している。・・・・
  生涯で一度だけお会いしたひとである。

〈紙漉き工時代〉より
・漉き初めや昔ながらの紙の里         ・寒の水ひたひた足にて  ( こうぞ ) 揉む
・紙漉き習ふ滴る水が足袋に滲む         ・あかぎれの手をいたはりて紙を漉く
・あかぎれに紙漉く水のつきささり        ・冷たさを確かめて紙漉きはじむ 
・水水水紙漉く冬の八時間            ・雪を来て紙漉く紙の白き中 
・風邪引いて紙をまぶしく漉きにけり
・紙漉くや霜腫さきに濡らしてより        ・紙漉く手炉に乾かせば  ( きず ) もゆる
  ( ひび ) ぐすり明日も紙漉く手がいとし        ・紙を漉く女ばかりへすき間風
・新雪の日向へ日向へ紙乾し出す         ・石炭が雪ごと燃ゑて紙乾く
・漉工われ寒き厠にさぼりをり           ・漉工らに喋べるたのしみ囲炉裏燃ゆ 
・わが月日紙漉く水に  ( ) くさ通ふ  ・てのひらに艶でて漉場春めきぬ
・紙漉いて 双手  ( もろて ) もも色花見どき ・紙漉場出て下駄春の道濡らす
・楮選るよその春闘話題にし           ・機械音絶えねば漉場温くしと思ふ 
・春らしき気配紙漉く腰に感ず          ・楮選る指にやさしや春の水
・緑陰に水溢れしめ楮選る            ・漉き濡れし  ( ) を脱ぎ捨つる今日メーデー
・早やじまひして 漉桁  ( すきげた ) 洗ふ祭りかな        ・あねいもと帯締め合ふや 紙祖  ( しそ ) まつり
・紙を乾す紙と裸と光りあふ           ・炎天といゑど漉場は濡れどほし
・漉工らの汗疹見せ合ふ手洗所          ・炎天下来てありがたきわが漉場
・望の月川をはさんで漉場  ( おと )            ・紙幣漉くわれも貧しく年暮るる

 しかし、出戻り娘は家に居辛く、母は満州時代の友を頼って単身神戸へ出ました。そして、金子兜太(とうた)先生の知遇を得たり、多くの俳句仲間たちから励ましを受けました。その方たちは寒雷の同人になり、今は立派な先生になっておられます。例えば当時母と一緒に句作に励んだ俳人の中には、今や俳句界の第一線となってご活躍されている森澄雄先生・矢島渚夫先生・川崎展宏先生がおられます。
 このように「俳句」や「短歌」(に限らず文学といっても良いかもしれません)は一つの作品となると、立派に一人歩きしてくれます。生まれ出た作品は、どんなに恵まれた環境にある人でも、母のようにどん底の境遇の者でも、みな分け隔てなく平等に評価されるということを母は知るわけです。「俳句の世界」は母を何より精神的に立ち直らせてくれました。そして俳人たちとの交流の中で再生を果たした母は、今度は現実生活をも立ち直らせようと努力し始めます。

〈引き揚げ後〉

そのうち、同郷出身である現在の母の夫(私の父)と再婚して京都に住むことになり、当時の住宅困難と食糧事情でどん底の生活を強いられました。最初は屋根裏のような、二階の間借生活をしていましたが、二人の子供達(兄と私)の誕生を機に小さいながらも我が家を建てました。そうした十年余りの間、育児や家事、それに内職の和裁に負い回されて俳句を作ることなど思いもよらず、読書すら満足にできませんでした。

・紙漉くや与ふものなき乳房冷ゆ         ・春寒の声を若くし紙を漉く
・これがわが家膝つき濯ぐ霜の石         ・眉描いて霜夜の母へ口応へ 
・子の墓にかくれ逢ふ身よ法師蝉         ・与ふものなき唇に秋の風
・背後より西日きびしき世評に耐ゆ        ・街路樹の萌ゆる深夜を眠られず
・再婚をせねばならぬ身銀河澄む

〈再婚後〉
 けれども、昭和四十三年歌会始めの御題「川」に、ふと故郷を詠んでみたくなった母は数首を作り、その中から当時小学六年生だった兄に選ばせたものを詠進したところ、奇しくも入選の栄に浴したのです。それが先ほどの則武先生の小序の中で紹介されていた歌です。
 「詩心」を掻きたてられた母は、このことを機にまた句作を始めます。

・雪降ってだんだん遠のく父母の国        ・ふるさとや触れてあたたか人と紙

・緑陰や信じて人に蹤いてゆく          ・屋根裏に巣喰ふて燕子を産みぬ
・家建つや田んぼは夜も稲育つ          ・退社後は子が待つ母よ遠蛙
・沈丁花子に訓されて夫へ和す

そして、まだまだ余裕のない生活の中で『寒雷』誌に投句し、清美の追善供養のために編んだものが、次の「満州追憶」です。

C 句集「満州追憶」(「大陸の花嫁」に併録) 

句集刊行にあたって、母の思いが述べられた部分を引用します。

「満州開拓団犠牲者の慰霊」より(抜粋)
  私は、満州からやっとの思いで子どもを連れて引き揚げてきた。その子が亡くなった後、シベリア抑
 留から帰ってきた夫を、私はあたたかく迎えることができず、離婚した。
  以後、私の空しい思いをぶっつけるところは俳句になった。基本もわきまえぬまま、十七文字にした。
 やがて、人から勧められて加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句するようになった。
  再婚して生活苦に喘ぎながらも、満州体験は何かの形で残しておきたかった。文章を綴るような余裕
 はなかった。十七文字の俳句に思いを込めよう。楸邨先生にとってもらった句が百句出来たら、句集が
 出来るかもしれない、と思った。
  毎月五句投句、『寒雷』誌に活字になるのはせいぜい三句、二句のときもあった。百句とってもらう
 のに三年かかった。
  昭和五十二年、敗戦三十三年目の年、永平寺で、満州開拓興亜義勇隊物故者の慰霊祭が営まれた。そ
 の霊前に『満州追憶』、私の句集が供えられた。
  当時、私が勤めていた会社社長の支援や、私の故郷、福井県に住む詩人の則武三雄先生のご協力があ
 ればこその句集刊行であった。

雪の曠野生まる子の父みな兵隊
帝国が唯のにほんに暑き日に
暫くは馬を日除けにして 母子  ( おやこ )
野草刈る 明日  ( あした ) の分も生きたくて
酷寒や男装しても子を負うて
餓ゑし子に餓ゑゐて唐黍
み食はす
  ( かじか ) む子抱き  ( ぬく ) めゐて  ( うえ ) きざす
オンドルのしんしん冷えて生きており
地平線行っても行っても枯野原
月が出て死んでも胸に 俘虜  ( ふりょ ) の文字
無雑作に 屍体  ( したい ) 積まれては凍り
子を焼いてしまへばほっと冬の星
みなし子に夕焼け満州国は亡し

句集「満州追憶」より
・麦熟れて東西南北地平線              ・腹時計日時計素っ裸の 苦力  ( クーリー )
  ( )   ( つま ) の背へ 冬没日  ( ふゆいりひ ) 驢馬  ( ろば ) の鈴           ・三寒の馬具を  ( かお ) よりはづしやる
・凍てし土片足づつ上げ  ( とり ) 歩く           ・ 俘虜  ( ふりょ ) われら餓ゑつつ稲の穂は刈れぬ
・薯ぬすむ午后八時の陽暮れやらず         ・ひもじくて寒さ凌ぎの羊草刈り
・眠る間も三寒四温靴のまま             ・殺されてから着せられし外套よ
・枯野のノロ逃げて子へ向き撃たれけり        ・地の底より湧きし寒の気子の息絶つ
・餓ゑて死にし子へくれなゐの黍の穂を       ・子が死んで枯野は星がきらめけり
・友を焼き子を埋めし土 鬼薊  ( おにあざみ )             ・行かねばならず枯野の墓に乳そそぎ
  ( かり ) 去って曠野の墓標杭ひとつ           ・荒野 泥濘  ( ぬかるみ ) 引きずる足が身を運ぶ
・盗みきし  ( ねぎ ) 煮る鍋は鉄かぶと           ・鉄かぶとにて 野蒜  ( のびる ) 炊き明日あるなり
・子を売って小さき袋に黍満たし          ・敗残の驢馬と霜夜を温めあう
・チチハルの真夏の馬糞ぶつけられ         ・雁をさす腕章かなし俘虜の文字
・生きて俘虜冬の野原に並べられ          ・つひに帰国防寒服は 襤褸  ( ぼろ ) でもいい
・つひに祖国敗れても月のぼりくる         ・祖国は木枯パンパンといふ者に逢ふ
・八月や死にし子海を見ず死にし          ・霜柱異国祖国の間遠し

 

満州追憶」については、2005年1月7日、大岡信「折々のうた」(朝日新聞朝刊)にも掲載されました。(掲載句・・・泣く吾子と凍て水ガツガツ噛む馬と)また、2005年11月発刊の大岡信著「新折々のうた8」にも掲載されました。

最後に今の母の思いを簡潔にまとめた「大陸の花嫁」のあとがきを引用します。 

大陸の花嫁―あとがき―

私は、戦時中の国策を疑いもせず大陸の花嫁になって満州へ行った。そこで見たものは、中国人を虐待する日本人の姿だった。それは日本古来の人間差別が、そうさせているように私には思われた。
 満州開拓に行った人たちのほとんどは「どん百姓(びゃくしょう)」と蔑まれる小作人であった。年間の収穫は地主に納め、ほそぼそと貧しい暮らしをしていた人たちだった。
 満州へ行けば二十町歩の耕地が与えられる、それは、中国原住民の土地であった。帝国をかさにきた日本人の満州開拓であった。
 大義名分の、東洋平和のため王道楽土を築くというものではなかった。
 中国人への虐待は、日本国敗戦で一変した。多くの同胞が悲惨な最期を遂げた。屍を葬ることもできなかった。そんな中から無事、生きて帰ってきた私。わが子を死なせ、満州での夫を捨てた私。
 その後、再婚して勤勉な夫と二人の子供に恵まれた。
 食糧難と住宅難の時代。頭がつかえて、まともに立つことができなかった屋根裏での新婚生活。夏は炎天に灼けるトタン屋根、冬は隙間風の吹き込むバラックに、何年か住んだ。そんな中で育った長男、長女。二人の子どもは立派に成人してくれた。
 苦難の前半生だったが、私の後半生は、他の誰よりも幸せであった。その幸せを思うとき私は、満州の広野に屍を曝した同胞を思い出す。八十年をも生かされてきたこの体の命終わったとき、一片の骨、一掬いの灰になるのだったら、献体しようと思うに至った。
 アイバンクに登録しドナーカードを持ってはいるが、この老体ではその役には立つまい。
 献体には同意書がいる。息子も娘も同意してくれた。ちょっとしぶった夫も同意した。
 私の死後の遺体は、京都府立医大へ献じることになっている。 

登録番号一七〇一―。

 

 このように今母は、身体のあちこちを病んでいるのですが、「あとがき」の最後で本人も言っていますように、死後は献体を希望しています。だから、今身体のあちこちを切り刻んで手術をするようなことはやめてほしいと言います。身体に傷をつけないまま献体したいのでこのまま自然死を希望すると、いつも話しています。ですから本人の希望するままにしていますが、寝たり起きたりを繰り返しながらもここ三年、病気とうまく共存しながら今に至っています。

母は今、最晩年にさしかかっていますが、まさに彼女の人生は、自分史のタイトル「生かされて生き万緑の中に老ゆ」そのままの人生だったと思います。何度も何度も生と死の狭間を潜り抜け「生かされて生き」てきた母は、何度も何度も「再生」を繰り返し、晩年になってようやくいろいろな夢が実りました。さらにそれがまた多くの種を蒔いて新しい芽がいっぱい出て、今万緑の中にいます。私自身も、ほそぼそとではあっても、母の戦争体験を語り継ぐことで、また新しい芽生えが確実に実現しているのを感じます。

ここでは、大阪俳句史研究会のみなさんのおかげで、母の「俳句」を取り上げて後世に残してくださるという動きが芽生えています。母はきっとまた「万緑の中に」いる感慨を新たにしていると思います。

 

 以上です。私はこれまで、母の語り部活動に付き添いながら、「やはり実体験者の肉声でないと戦争の実態は伝えられない。何より心には響かないだろう。」と思っていました。それで今回、母という語り部から語り継がれた、いわば「語り継ぎ部」の私が母の戦争体験を語る形であったため、少し不安があったのです。でも予想以上に、「感動した」とか「涙が止まらなかった」という反応を得、本当に嬉しかったです。「語り継ぎ部」としての活動にも見通し明るいものを感じました。

 
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