1.引き揚げ港、佐世保浦頭港を偲ぶ会

@「佐世保を偲ぶ引き揚げ船再現」の船   A「佐世保を偲ぶ集会」式典

(主催:佐世保市 1998年 2月24日 於:ハウステンボス 引き揚げ援護局跡)                            新谷陽子のページ

 感想

 1998年2月。私は両親と夫、そして2人の子供も学校を休ませて長崎へ行き、佐世保市が主催する「引き揚げ港、佐世保(浦頭)を偲ぶ全国の集い」に参加しました。

 佐世保は、敗戦時母が旧満州から命からがら引き揚げて来て、最初に降り立った思い出の港です。そんな母の「再生の土地」を私も見たくて、また子供たちには、おばあちゃんの戦争体験を、実際の引き揚げ港で聴かせることで、親子孫への生きた語り継ぎができるだろうと期待したのです。とは言っても実際は、観光を兼ねたツアーなので気軽に参加しました。

 ところが、前もって佐世保市が募集していた体験者の手記に母が応募していて、それが主席に選ばれテレビで紹介されていたため、NHK九州放送の方々との同行となり、私たち家族は緊張の連続となったのです。祖母が再現された引き揚げ船に乗りながら孫に戦争当時のことを語り継ぐという設定で、まる1日密着取材されたのですが、あいにくの大雨と子どもの船酔いで予定外の結果になったようで、少し申し訳なく思いました。鹿子前港から乗った引き揚げ船の中では、船内放送で母の手記が読まれ、当時の音楽が流れ、おまけに引き揚げ港の浦頭港では、割ぽう着姿の地元の婦人たちが日の丸を振って下船する私たちを迎え、警察音楽隊の演奏もあるという、ちょっと演出過剰なんじゃないかと思うほどの大イベントでした。(実際の引き揚げ風景は、鳴り物入りなんかじゃなく、もっと静かで簡素なものだったそうです)

 でも、私たちにとってこの旅行は、子供たちを2日間も休ませただけの値打ちある、有意義なものでした。子供たちにとっては、「戦争」や「平和」について考えるきっかけになったと思いますし、その子供たちに語り継ぎ一緒に考えていこうとする私にとっても、とてもいい経験になりました。

 特に再現された引き揚げ船の中ではいろいろな感動がありました。引き揚げ体験者のみなさんは、船内でお互い身の上話をしておられましたが、浦頭港が近づくにつれて一様に無口になり、誰からともなく一番港の良く見える位置に集まって来られ、感極まった表情で涙を流しておられました。この姿には胸を打たれました。引揚者のみなさんの本当の姿を見た思いがしました。何人かの体験者の方ともお話をしましたが、どの方も口をそろえておっしゃることは、本当に辛い苦しい引き揚げ体験だったけど、その悲惨な体験の具体的なところはほとんど忘れ、何より「生きて日本に帰り着いたこの浦頭港でのうれしかったことだけははっきり覚えている」ということでした。

 母も、当時の引き揚げ風景の写真や資料の展示を見て、初めて思い出すこともあったらしく、感慨深げでしたが、やはり当時のことで一番良く覚えているのは「上陸したその瞬間の喜び」だったようです。人は、本当に辛かったり苦しかったりすると、うまくそれを忘れてしまおうとする本能があるのかもしれません。浦頭港から引き揚げ援護局までさらに7キロもあったというのに、引揚者のみなさんは全員歩かれたといいます。そこからさらに北海道まで帰らなければならなかったという、当時6歳だった方も、やはりそのあたりの記憶は薄らいでいるようでした。

 私は、「ただただ生きて日本の地にたどり着けた」ということが、当時の引揚者のみなさんにとっては、どれだけ待ち望んだ重大なことで、また逆に言えば、それだけ引き揚げ途中で亡くなった多くの人にとっては達成できぬ見果てぬ夢だったのだということを思い知りました。他から脅かされることなく、ぬくぬくと守られながら生きてきた戦後の私たちには計り知れない思いがそこにはあったんだろうと思います。そんな気持ちになれただけでも、この佐世保の旅は大きな収穫のあるものでした。

新谷陽子のページへ