「大陸の花嫁」 あ と が き

 

大陸の花嫁

    「壮行会」

(昭和18年3月1日)


 
私は、戦時中の国策を疑いもせず大陸の花嫁になって満州へ行った。そこで見たものは、中国人を虐待する日本人の姿だった。それは日本古来の人間差別が、そうさせているように私には思われた。

 満州開拓に行った人たちのほとんどは「どん百姓(びゃくしょう)」と蔑まれる小作人であった。年間の収穫は地主に納め、ほそぼそと貧しい暮らしをしていた人たちだった。

 満州へ行けば二十町歩の耕地が与えられる、それは、中国原住民の土地であった。帝国をかさにきた日本人の満州開拓であった。

 大義名分の、東洋平和のため王道楽土を築くというものではなかった。

中国人への虐待は、日本国敗戦で一変した。多くの同胞が悲惨な最期を遂げた。屍を葬ることもできなかった。そんな中から無事、生きて帰ってきた私。わが子を死なせ、満州での夫を捨てた私。

 その後、再婚して勤勉な夫と二人の子供に恵まれた。

 食糧難と住宅難の時代。頭がつかえて、まともに立つことができなかった屋根裏での新婚生活。夏は炎天に灼けるトタン屋根、冬は隙間風の吹き込むバラックに、何年か住んだ。そんな中で育った長男、長女。二人の子どもは立派に成人してくれた。

 苦難の前半生だったが、私の後半生は、他の誰よりも幸せであった。その幸せを思うとき私は、満州の広野に屍を曝した同胞を思い出す。八十年をも生かされてきたこの体の命終わったとき、一片の骨、一掬いの灰になるのだったら、献体しようと思うに至った。

 アイバンクに登録しドナーカードを持ってはいるが、この老体ではその役には立つまい。

 献体には同意書がいる。息子も娘も同意してくれた。ちょっとしぶった夫も同意した。

 私の死後の遺体は、京都府立医大へ献じることになっている。

 登録番号 1701-。

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