小  序

 私と井筒さんとの出あいは昭和二十七年からになる。

 随分長い。

 在る時、岩野家へ行った際、紙を漉いている俳女として山口紀久枝があるが、あなたの漉工場ではないかと質問すると、直ちに紹介された。(当時は山口姓)

 何月であったか、彼女は毛糸のセーターを何回か掻き合わせた。黄系統であったのを回想する。

 その次に邂ったのは、否邂逅していないのだが、紙漉きを、漉く過程を直接句作したものは、余人はあっても彼女の句稿を随一とする。

 もと岩野製紙場から生まれた生えぬきの作家である。

 以来、何年か経過して、昭和四十三年の宮中歌会に彼女は選ばれる。「川」の御題に・・・。

 

  どの家も紙漉く夜なべ終えたらし峡をながるる川音きこゆ

 

 彼女の追懐、それこそ峡や河を流れるものであっただろう。

 ヒビが切れると裏の山に登って草を採って来て練って着ける簡単な生活、そこから生まれた作品の純粋さは永く記憶されるべきだと確信している。

 一男一女があり、現在の彼女の得られた幸福、それこそこの一冊の完成をしめすものであろう。

 こんど手記で初めて識ったのですが、彼女は昭和十八年、大陸の花嫁であった。彼女の少女期にも何か決意を要するものがあった。

 私がお邂いしたのは終戦によって帰国した後の山口紀久枝さんであり、すでに容易でない苦難を経ていられた。

 それを少しも知らなかった。

 生涯で一度だけお会いしたひとである。

 岩野工場でも彼女のすがた、そして京都桂川の傍の生涯となるのだが、彼女は昭和四十九年八月にも帰郷して−−、その死の一週間以前の岩野平三郎氏の写真も撮影している。

 真に、記念写真であった。

 その際、平三郎さんはまだまだ死がんぞということをくり返し言われた。

 が、その八月二十二日の没。

 人生は川の如くながれているのだろう。

 

    1977年6月    則武 三雄(のりたけみつお)

 

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