貧乏そして転業

  紙を漉くのは、女の仕事である。女は子どものころから、ままごと遊びにも紙を漉く真似をして、見よう見まねで紙漉きを覚え、十七、八歳にもなると、一人前の紙漉きになっていなければならなかった。

「あの娘は、良い紙を漉くそうな」

  と、噂が立つと、嫁のもらい手が多かった。

  そうした所へ、紙漉きを見たこともなかった母が来たのだから、母も大変な苦労をしたにちがいない。

   家は、山の麓に小さく建っていた。南側には、村一番の製紙工場を持つ資産家があって、その家の大きな土蔵が、わが家を威圧していた。また、荷車がやっと通れるほどの道の、向かい側は紙問屋で、その家の広い立派な庭が、黒く高い板塀で囲まれていた。北側は、山裾に虚空蔵様の祠があるので、境内になっていて、子どもの遊び場にもなっていた。後、村道を広くするため、村はずれに立っておられたお地蔵様が、その一角に来られた。

  その境内を挟んで、わが家の紙干し場があった。父は、そこで圧搾した紙を板に張りつけて、天日で乾かしていた。

  家は山を削って建てたらしく、山は切り立っていて赤土が見え、山と家の間は二メートルほどしか空いていなかった。それで、冬雪が降ると、山の木の枝から落ちる雪は、藁屋根の家を揺さぶり、その雪で屋根と山とが一つに連なった。古くて痛んでいる小さな家は、屋根に雪が少し積もると、家のあちこちが「ミシッ、ミシッ」と鳴った。だから、よその家は泰然と構えていても、わが家は夜中で会ってもおちおち眠っていられず、雪下ろしをしなければならなかった。大雪ともなれば、隣近所の雪も落とされて、二階のないわが家は雪に埋もれ、雪の階段を作って出入りしていた。

  また、梅雨時になると、屋根裏に溜まった煤がポタリ、ポタリと落ちてきた。夏になれば、蛇が鼠を狙いに入って来ていて、ふとんの中でとぐろを巻いていたり、大きな百足(むかで)が蚊帳の上をごそごそ這っていたりした。

  そのようなあばら家の中は、半分以上は、紙を漉くための場所になっていた。山から湧き出る水を、背戸の池に溜めるようにしてあって、その水を家の中に引き込み、家の中に溜め池が三つもあった。飲料水と紙漉き用、原料の楮を晒す所、洗い場などと用途が決められていた。

  従って、家族の寝起きする所は狭かった。奥に六畳ほどの間が二つあったが、敷居だけで襖はなく、父が作った二つ折りの屏風で仕切ってあった。そこは兄と叔母が寝る所で、うすべりが一枚ずつ敷いてあった。畳講(たたみこう)で取ったという畳が、十畳ほどあったが、それは法事とか人が集まるときしか敷かず、ふだんは積んであった。その上は、ふとんや脱ぎ捨てた物を置く場所になっていた。

  父や母、私たち子どもは、囲炉裏のあるオイエで寝た。囲炉裏にはいつも榾(ほた)が燻っていて、自在鈎には煤けた茶釜がかかっていた。囲炉裏の周りには、家族の座る場所が決めてあった。父が座る場所は横座といって、たとえそこが空いていても、父以外の者は座ることは許されなかった。母は火焚き座に座った。朝早く起きて、私が拾って来た杉葉を燃やして、麦飯を炊いていた。杉葉は焚くと灰が舞い上がるので、とても傍で寝ていられたものではなかった。夜は、榾(ほた)をくべ足して煮物をしていた。子どもの座は、横座の向かい側である。座布団を敷けば客座にもなった。

 囲炉裏は、どこの家も家族団欒の場である筈だが、私はそこに寛いだ気持ちで座った記憶がない。

 母は、そのような貧しい家に嫁いで来て、見たこともなかった紙漉きを習い、ようやく紙問屋から、母の漉いた紙が見とめられるようになったころ、その掌はざくろがはじけたように、真っ赤にただれてきた。もう紙を漉く簀桁(すげた)は持てなくなり、掌を広げることも出来ず、

「お前はキクを殴ってばっかしいるさかい、もう殴られんように神様が罰(ばち)当てなはったんやわ」

 祖母は、母の掌を見てそう言っていた。

 紙漉きは、その村に生まれた人でも、紙汁の中へ入れるネリ(トロロアオイの根から出る粘液)にかぶれて、そのような掌になることが稀にあった。そういう人は髪結いになったり、上方(かみがた)へ女中奉公に行ったものだが、この村へ嫁いで来た母は、そのころ、二人目の妹を身ごもっていた。

 父は、家代々の紙漉きをやめることにした。

 すると、分家した父の弟が、毎夜のように酒を飲んで来ては嫌味を言い、母を罵った。

「言いなはる通り、うら(私)はこの家の役立たずです。キクはうらの子やでキクだけ連れて出て行きます」

 と、母が言い出した。

 これまで、みじめな思いをしてきた私は、早くこの家から出て、祖母の家へ行きたくて、上がり框にちょこんと座って母が出て来るのを待った。ところが、叔母が火傷のあとの顔をひきつらせて、妹を片手に抱き、母の足にしがみついて泣きだした。

「姉さん、どうか行かんといとくれ。行くんやったらうらもこの子も連れてとくれのォ」

 

 父は、紙干し場にしていた地所を売り、それを元手にして青物商いを始めた。中古の大八車を手に入れ、朝早く仕入れて来た野菜や果物を積んで行商した。

 紺の股引きを穿き、アツシという法被(はっぴ)のような兵児(へこ)帯を巻き、その帯に、煙草入れと手拭いと矢立てを引っ掛けていた。矢立てというのは、墨汁と筆を入れた筆記具である。

 しかし、商売はうまくいかなかった。村中を歩き、隣村まで回っても売り切れず、残った青物の始末に困り、家族に当たり散らした。

 母と叔母は、近所の製紙工場から回してもらって、楮や三椏の塵を取る作業を始めた。水の中で塵を取るこの作業は、明るい日中でなければ出来ない。一貫目いくらの賃仕事は、なにほどの工銭にもならなかった。

 それでも、母から毎夕、父の晩酌のために、燗壜(かんびん)と十銭を渡されて酒を買いに行かされた。

 父は、横座で胡座をかき、囲炉裏の中から掻き出した燠(おき)の上へ燗壜(かんびん)をのせて、ちびちび飲んでいたが、機嫌の良い酒ではなかった。

 やがて、青物商いに失敗した父は、豆腐屋を始めた。私が一年生ごろだったと思う。知らないおばあさんが、何日も泊まりがけで来ていて、豆腐や油揚げの作り方を父と母に教えていた。それは母の方が早く覚えたらしい。父と母は早く起きて、大きな石臼を回して豆を挽いていた。水は豊富なので、豆腐屋には向いていた。母が作った豆腐や油揚げを、父は天秤棒で担いで売り歩いた。青物商いに使った大八車は、ゴムタイヤではなかったし、石の多いごろごろ道では車の振動で豆腐がくずれる。それにその車は、もう人出に渡っていた。

「とうふぃ、あぶらげッ」

 父の売り声は、山にこだましてどこにいても聞こえ、村の子どもたちが真似るので恥ずかしかった。

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