小学生のころ

 私が修学したのは昭和二年。福井県今立郡岡本村尋常高等小学校。虐待され、貧しい家でありながらも、就学出来たことは、ありがたいと思わなければならない。

 そのころの女の先生は、束髪に和服を着て、紺の袴を胸高に穿いておられ、とても格好良く思われた。式のある元日、紀元節(二月十一日)、天長節(四月二十九日)、明治節(十一月三日)には、紋付きを着られた。男先生は、現在とほとんど変わらぬ背広姿だったが、中には詰め襟の方もあった。式で、「教育勅語」を天皇、皇后両陛下の御真影(御真影)<写真>の前で読まれる校長先生と、お勅語を校長先生の前へ捧げ持って来られる教頭先生だけは、白手袋をはめてモーニング姿だった。

 生徒たちは、男も女も膝たたきの短い着物を着て、袴を穿いていた。雪が降ると、その上へマントを被ったり、茣蓙(ござ)帽子を被ったりした。洋服やセーターなど着ているのは、五十人中、二、三人で、金持ちの子だった。

 私は、母が娘時代に綿(わた)や麻から紡いで織ったという、木綿縞や絣の母の着物を、仕立て直したり繕ったりした物を着せられていた。せめて、式のときぐらいは、折り目の通った赤い袴を穿きたかったが、やはり木綿縞の着物に、袴はただ赤いというだけで、折り目がすぐとれてしまう木綿物だった。式では、校長先生が教育勅語を読んでおられる間は、頭を下げていなければならない。私はその間、傍に並んでいる子の着ている物と、自分の物を比較していた。

 私は学校にいても、ものも言わず、人から何か言われるとすぐめそめそするので、男の子から「泣きみそッ」と侮られた。唱歌と体操は嫌い。図画も習字も不得手。とにかく不器用で、遊び時間の縄跳びもまりつきもお手玉も出来なかった。ただ算術と国語は好きだった。が、発表が出来ず、本読みが当てられないようにと、いつもびくびくしていた。

 そのころの一年生の国語読本は「ハナ、ハト、マメ」と、カタカナから始まった。それを一学期だけだったが、石板(せきばん)と石墨(せきぼく)を使って書いた。消したり書いたり出来るので、算術も国語も図画もこれだけで用が足り、赤いチョークで何重丸もつけられると、嬉しくて消すのが惜しまれた。

 家へ帰って、宿題や予習をしようと思うと、「めろ(女)の子には学問はいらん。はよ家の用事をせい。本ばっかし見てるんやったら、ほんな本破ってしまうぞッ」

 と、父に怒鳴られた。私は大事な教科書を破られたら大変だと思い、鞄の中へしまいこんだ。

 その鞄は、私の身なりには似つかわしくない、赤くて美しいビロードで出来た、肩から提げる物で、祖母からの贈り物だった。

 私は学校から帰ると、すぐその鞄を父のみえない所へ置いて、子守をしたり、母が言いつける事をした。そして夜になってから、父が晩酌をしているときを見計らって、ふとんの中へもぐって勉強した。すると、八燭の電灯を手元へ下げて繕(つくろ)い物をしている母が、私の方へも灯が届くように工夫してくれた。

 そのような私が、一年生の終業式に、優等賞の褒美をいただいた。そのときばかりは、

「お父も褒美に、何(なん)か買うてやる」

 と、機嫌が良く、私を村の「よろず屋」へ連れて行ってくれた。

「うらんとこ(自分の家)んたな貧乏人の子ォでも、学校で褒美もろてきよったげのォ」

 父は会う人ごとに吹聴し、五十銭出して、赤い大きなてまりを買ってくれた。

 しかし、そのてまりは、家でまりつきをすることも、学校へ持って行くことも許されず、妹を遊ばすため、家の中で転がすことしか出来なかった。それでも私は「父が私に買ってくれた」という思いで満たされていた。

 そのころ、私をいじめていた兄は、高等小学校を卒えてから、近所の製紙工場へ就職していた。ところが、工場の雪下ろしをしていて屋根から落ち、足を痛めた。それはなかなか治らず、とうとう足が不自由になってしまった。私は「あの足で私の頭を蹴ったり抓ったり下から、罰が当たったんやな」と、心の中で思っていた。

 父は、豆腐を売り歩きながら、どこそこの医者がいいとか、どこそこの接骨院がいいとか聞いて来ると、どんなに遠くへでも兄を連れて行った。あるときは、泊まりがけで行ったこともある。だが、どこへ行ってもなおらなかった。兄は、もうどこへも勤めなかったし、家の手伝いもせず、ひねくれるばかりだった。

 父が売り歩く豆腐も思うようには売れず、夏は夕方には腐ってしまう。それを父と母は、夜になってから裏山へ埋めに行っていた。天秤棒を担ぐ父の肩は、黒く固く盛り上がり、「肩が凝った」と言っても、たたくことも揉むことも出来なかった。威勢のよかった「とうふぃ、あぶらげッ」の売り声も弱まり、後には振り鈴(りん)を鳴らして歩いた。

 豆腐や油揚げがよく売れるのは、祭りや盆、正月だった。私が三年生になり四年生になると、祭りなどには、学校を休んで配達の手伝いをさせられた。手提げ箱の中へ豆腐を入れた缶を入れ、蓋の上には新聞紙に包んだ油揚げをのせて、一軒一軒配達した。それは重たくて歩くたびに豆腐の水がこぼれ、着物の裾も足元もびしょびしょになった。注文書を見て、もうここ一件で終わりだと思って出て行くと、

「おーい、豆腐屋の子ォ、うちへも1丁持って来てやァ」

 と、声がかかり、がっくりした。それでも嫌な顔は出来ず、「毎度おおきに」と、笑顔を見せなければならなかった。よその子は、親と一緒にごちそうを食べ、きれいな着物を着て遊んでいる祭りなのに、私は豆腐屋の子だった。

「お前んとこの豆腐は、うまいのォ」と、村の人からよく言われたが、ふだんは、買ってくれる人は少なかった。豆腐や油揚げは、ぜいたくな食べ物とされていた時代だった。

 兄の医療費やら商売の元手やらで、借金は嵩む一方だった。豆や油や米までも払う金が出来ず、三ヶ月節季のたびに、父と母は、借金取りにひれ伏して謝っていた。しまいには米屋から、百円の借用証まで書かされていた。そうしたことは見たくなかったが、狭い家の中では子供の私にも、何もかも分かるのだった。

 しかし、米や豆がなくなれば米屋へ、油がなくなれば油屋へ頼みに行かなければならない。米屋は学校の近くなので、それを頼みに行くのは私の役目だった。

「おいでなはい(ごめんください)、おいでなはい」

 大きな声を出せない私が、何回も何回も呼ばなければ、米屋の主人は出て来なかった。

「米も豆ものうなったんやで、どうか持って来ておくんなはい」

 私は遠慮がちに頼んだ。米屋の主人は返事もせず、私の顔をじろっと見るだけだった。私は学校にいる間中、豆も米も配達してもらえるだろうか、と心配だった。学校から帰ってみて、まだ運び込まれていないと、私の頼み方が悪かったのではないかと思って悩んだ。それでも夕方近くになって、大八車の音がしたと思うと、米屋は黙ったまま、米一俵と豆一叺(かます)を縁端へどすんと置いて行った。私はほっとするとともに、また、その米や豆が減っていくのを怖れた。そして、うちの親も、よその親のように、元手のいらない職工になってくれたらいいと思った。

 母は、毎日朝のうちに豆腐や油揚げを作っておき、父が行商に出たあとは、相変わらず叔母と並んで楮の塵取り作業をしていた。ときには楮扱(こうぞこ)きもしていた。

 楮扱きは、私も五年生からさせられた。そのころ、村の山には楮や三椏の木が植えられていて、その木が二メートルほどに伸びると伐採し、木ごと蒸して皮を剥ぐ。その皮が紙の原料である。それを乾かして蓄えておき、必要なとき、必要な量だけ出して来て、川の水に一昼夜ほど浸しておく。その楮を川の中へ入って、黒い表皮を足で揉み落とすのである。

 冬、初めは切れるほど冷たい水も、揉んでいるうちに足は真っ赤になって、冷たさを感じなかった。あらかた黒皮が落ちると引き上げて来て、土間に敷いてある筵の上へ座り、「枕」という枕型に切った木に草鞋をくくりつけた物の上へ、楮を広げて、残っている表皮を包丁でこそげ落とす。楮は枝がなくてやりやすかったが、三椏は枝がどこまでも三つに分かれているので、細い部分まで広げて、こそげなければならない。それを楮扱きという。

 やがて、六年生になると、日曜日はもちろん、学校から帰ると、たとえ四時過ぎになっても終業時間の五時半まで、南隣のY工場へ仕事にやらされた。そのころは、私も楮扱きが上手に出来るようになっていたので、主に楮扱きだったが、工場の雑用もさせられた。労働時間は十時間だったので、私は一時間とか一時間半勤めて、それが十時間になると十五銭の給料がもらえた。家で楮扱きするより分(ぶ)が良かった。

 そのころ、隣町とわが村の労働者が、労働同志会というものを起こした。学校の窓から見える隣町の織物工場の煙突の上へ、男が登って赤旗を振り、何か喚いていた。また、隊を組んだ男女が、労働歌を歌いながら村なかを練り歩き、大きな工場を持つ家の前では、立ち止まって奇声を上げていた。そうした人の子供たちは、もう学校へは来ず、どこかへ集まって勉強していたらしい。私のクラスにも四、五人、そういう子がいた。そして、その子の親たちが次々と、深編み笠をかぶせられ、後ろ手にくくられて巡査に連れられて行くのを、学校帰りに見た。そのときばかりは、わが親が勤め人でなくて良かったと思った。

 そうして、それは昭和七年九月、私が六年生のとき。継いだり貼ったりしても、まだ破れ目から蚊が入ってくる蚊帳の中で、親子六人は寝ていた。まだ起きるには早く、父は便所へでも行こうとしたらしい。

「うううーん、」呻きとも叫びともつかぬ父の声に、母も私も飛び起きた。

 そのころ、十代、二十代の若者は肺結核に罹る人が多く、四十代、五十代になると、脳溢血で呆気なく亡くなる人や、半身不随の中風になる人が多かった。いずれも不治の病と怖れられていて父も日ごろから、中風になることを怖れていた。

 貧しかった父は、自分の体の異常に気づきながらも、医者にもかからず、無理をし過ぎて中風になったのだった。医者を呼びに行っても、貧乏人の家へはすぐ来てくれず、柿渋がいいとか松葉酒が効くとか、ただ眼ばかり剥いて右半身をこわばらせ、「うう、うう」と言っている父の口をこじ開けて、滴らせた。

 母は、父の看病をしながら豆腐屋を続けた。石臼を回して豆を挽くのは、父の朝の仕事だったが、体の丈夫でない叔母が、母を手伝った。学校から帰ると、私は工場へ行き、四年生になっていた妹は、買ってもらえそうな家を訪ね歩くようになった。

 夜は、母が黒板に記しておくその日の売り上げを、売上帳に書くのは私の仕事になった。そのころ、ノートやペンがあったかも知れないが、私は、父がしていたように墨を磨り、毛筆で、和紙を綴じたものに書いた。その売上帳は、綴じ直して裏表に使い、最後は障子紙にもなった。

 誰も現金買いする人はなく、みな掛け売りで、それも三か月節季。節季になると、私はそろばんを弾き、請求書は巻紙に認めた。父の実子である兄は達筆でありながら、手伝おうとはせず、父が発病してから、家族にまで暴力を振るうようになっていった。

    傳兵衛様       山口豆腐店

    何月何日

  一   十六銭     豆腐 一丁

    何月何日

  一   八銭      油揚 一コ

    〆 二十四銭

 という具合に、私は巻紙に幼稚な字を並べた。掛け取りは妹と学校を休んで歩いた。

「お前らはえらいのォ。この書き出し(請求書)は、キクエさんが書くんか。お前は学校でも良うでけるんやってのォ」

 と、言ってくれる人もあったが、

「はんぱだけまけとけやァ、まけんのやったらもう買うてやらんぞォ」

 子どもだと侮って、無理を言う人があった。

 やがて私も、義務教育の尋常六年を卒業することになり、卒業の記念写真を撮られた。その写真は五十銭だった。

「ほの写真買うたら、うらのこの病は治るんかッ」

 父が目を剥き、もつれた舌で言った一喝で、その写真は買ってもらえなかった。私は。母が恨めしかった。なぜ、患っている父に相談しなければならないのだろう。なぜ、母は五十銭の工面が出来ないのだろうと思った。

 六年生女組五十六人の出席簿やクラス日誌を記していた私だったが、その私だけがその写真を手にすることは出来なかった。

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