老いて
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年に一度の健康診査に行った医院の、大鏡に映った自分の姿にドキッとした。私はもっと若やいでいるつもりだったのに。家の小さな鏡を覗いては、顔や髪をごまかして、まだまだその歳には見えぬと自負していたのに・・・・。診査の結果は、低血圧、貧血、高コレステロール、体重不足、そして頻尿。七十歳になった私は、やはり七十歳の体になり、姿になっていた。 その私が、母をわが家へ引き取ることになった。平成三年三月である。母は明治三十二年二月九日生まれの九十二歳。 それまでは、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)で自分のことも容易に出来ない妹の家に置いてもらっていたのだが、その母が粗相をするようになったという。 「もう私の手に負えん。何とかしてェ」 妹は、姉の私に訴えるよりほかになかった。 「うら<私>は、おぞいことのうてきた<苦労して、体を無理使いした>で、長生きはでけんやろ」と、いつも言っていた母。 平成二年二月、母と一緒に住んでいた実家の妹が亡くなったとき、「うらは何でこんな長生きしてしもたんやろ。スサヲと代わってたらよかったのになァ」と、嘆きながらも、「老人ホームへ行くのは嫌じゃ」とか、「ほな、うちへ来るか」と言えば、それも拒んだ。 「京都んたな遠いとこは行きとうない。うらんたな車に弱い者(もん)は、着くまでに死んでしまうわ」 「何言うてるの。はよ死にたい言うてるのに、車ん中は私が抱いていってあげるわいな。私の膝の上で死ねたら本望やろ。死んだらここへ連れて帰ってあげるでのォ」 と、言った私に、母はぷいと横を向いた。 「この歳になって、今更どっこも行きとうないんじゃ。うらはここで死ぎたいんじゃ。マス<次の妹>んとこへ連れてってくれ」 と、自我を通した。 私の故郷は、越前和紙の里、福井県今立(いまだて)町大滝である。だが、十数年前、妹夫婦は夫の定年退職を機に、母を伴い、武生(たけふ)市へ引っ越した。そのときも私に愚痴った。 「うらは、この家で死ぎたかったんじゃ」 「一緒に連れてってくれるんやで、ありがたい思てついていかなあかん」 と、言い含めたものだった。 そんな母を引き取らなければならなくなった妹のマスは、今立町に嫁いだが、若くして夫を亡くし、残された一人の息子を生きがいに、紙漉き工として三十余年勤めたあげく、骨粗鬆症になって腰は曲がり、腰痛に苦しんでいる。その体でこの1年間、母の食事や洗濯の世話をしてくれていた。 私は妹からの電話で、すぐ母の様子を見に行った。1年前、私が断髪にしてやった白髪頭はうすくなり、寝嵩も小さくなって、口を半開きにして寝ていた。ふとんをめくると悪臭が鼻をつき、着ている物を汚している。 わが親ながら、なぜこんなに長生きするのだろう。妹と代わっていたらよかったのにとしみじみ思った。思いながら、着替えをさせ、身体を清拭してやった。が、それは私にはかなりの重労働だった。だがこれから先、この母は私が看取らなければならなかった。寝た切り老人の介護に自信はない。 かといって、老人ホームへ入れようにも、武生市も京都市の方も当たってみたが、今すぐというわけにはいかず、半年も一年半も順番待ちしなければならないという。 やっぱり、わが家へ連れて来て私が看取らなければならなかった。それにしても、車に弱い母が、高速道路を走って二時間余りの間に苦しみだしたらどうしよう。私の家へ連れて来きてすぐ死んだらどうしよう。 二月は、一年前に亡くなった妹と、五十数年前に亡くなった父の命日が続いている。私は母の死を祈った。わが家へ連れて来る前に死んで欲しいと祈っていた。母の終焉は姉の私が看取らなければならないと常々思っていながら、その場に及んで惑い悩んだ。 私は女ばかり四人姉妹の姉で、もう一人末の妹がいる。その妹は看護婦を定年退職して、石川県の山中温泉に住んでいる。病人や老人の介護に経験豊かなこの妹に、母を預けることが出来たら申し分がない。しかし、この妹の夫と、実家の亡くなった妹の夫との間に、大きな争いが起こったため、数年前から、姉妹どうしも絶交状態になっている。そうした中にありながらも、私とこの妹は秘かに電話で交流し、母の安否を伝えていた。 「私は夫のせいで親不孝しているのだから、こういうとき、母の世話がしたい」 妹は言ってくれた。私もそれが出来るならと思った。けれども、母は末娘のわが子に会いたがってはいるが、その夫を嫌っているし、また、実家の義弟の一徹な気持ちを思うと、それは出来ないことだった。 それで、せめて母をわが家へ運ぶ途中、万一のことがあった場合のことを考え、看護婦をしていた妹について来て欲しかった。と、なると、妹は、こちらのことを何も知らないでいる夫に、いきさつを話さなければならなかった。私はびくびくしながら妹からの返事を待った。ところが思いのほか、素直に聞き入れてくれたとのこと。彼の気が変わらないうちにと思い、「妹を一日お借りします」と、丁寧に頼んだ。 同じ母から生まれた姉妹でも、女は夫次第で運命が変わる。家を継いだ妹は、強情な母と婿養子の夫の間に挟まれて大分苦労していた。次の妹は、息子が三歳の時に夫に先立たれた。一番末の妹は、看護婦という天職につきながらも、夫の機嫌をそこなわぬよう気の休まることがないという。ところで、この私はーー。 一年前、「京都んたなとこは行きとうない」と、頑なに拒んでいた母を、目の前に見ていた夫だがーー。 「お前の親じゃ、誰も見る者がのうなったんやでお前が見ィなしゃないやんけ」 と、言ってくれた。 田舎の家のように広くはない、建て売り住宅の我が家である。息子も娘も出ていったあとの二人暮らしは、それなりに部屋を使い、物を置いている。母を迎えるに当たり、夫は自分の部屋を明け渡して二階へ移ってくれた。タンスや物の移動は、力のない私を相手に大変だったと思う。 夫の車はスノータイヤを使っていないので、降雪や凍結の多い二月は見送り、三月に入ってからということにした。 その日、三月五日は幸い好天に恵まれた。夫が運転する車は午前九時に家を出て、名神、北陸の高速道路をひた走り、十一時過ぎには今立町に着いた。 末の妹はもう山中から来ていて、母に着替えをさせ、近くの診療所からもらって来たという注射を打っていた。武生の実家から今立町の妹の家に来るまで、二十分ほどの間でも車に酔う母である。その母に軽い昼食をさせ、私たちと昼食をとりながらも、妹は動いていた。 「体重は三十キロちょっとぐらいやろなァ」 と、言いながら、これも診療所からもらって来た睡眠薬と酔い止め薬を、半粒ずつ飲ませていた。すると母は、私たちの食事が終わらないうちから、鼾をかき始めた。 「さあもう出なあかんわ」 妹が言う前に、私も気が急(せ)いていた。 それまでに、母の身の回りの物は車へ積み込んでおいたので、後ろの座席へふとんを詰め込み、眠っている母を、そこまで運び込まなければならない。目覚めていれば、妹は上手に抱きかかえて移動させるのだが、ぐったり眠っていると小さくなってはいても、ずっしりと重くて、三人がかりでようやく運び込んだ。私は助手席に座り、妹は、寝かせた母の足元へ窮屈そうに乗り込んだ。 「一番歳のいっている姉(ねえ)に、おばばを押しつけることになってしもて、悪いなァ。体に気ィつけておくれのォ」 不自由な体で、これまで母の世話をしてきた妹は、見送りながら私に言った。 母は昏々と眠っていた。「うらは、この地で死ぎたいんじゃ」と言い、乗り物に弱くて、どこへも出たことのなかった母が、今、再び帰られよう筈もなく、名残を惜しむことも出来ないまま、九十余年生きてきた故郷をあとにした。 残雪の山は陽に輝き、雪解け川はきらきら光っていた。 夫はいつもなら、一・二回はエリアで休憩するのだが、ひた走りに運転し、「大丈夫か、苦しそうにしてへんか」と気を配ってくれた。母は、頬に赤味さえおび、よく眠っていた。 私は、その母の寝顔を見て、子どものころを思い出し、来し方を思い起こしていた。 |