私は誰の子

 私は、大正十年一月十八日生まれになっている。と、いうのは私が十二、三歳ぐらいのころ、母が大病した。そのとき、

「お前は、一月の十五日生まれやけどなァ」

  と、遺言めいたことを言いかけたが、その一年前から中風になっていた父が、

「おヒサァ、死がんといてくれやなァ」

  と、泣きながらちかづいて来たので、あとの言葉は聞かずじまいになっている。

  私が物心ついたころは、二つちがいの妹のお守りをさせられていた。イズメという、藁で編んだ籠のような物の中へ赤ん坊を入れ、イズメがころころ動くように、下に棒が一本入れてあった。それを私は、いつもころころ揺さぶりながら、子守歌を歌うことも知らず、ただ「ネンネンヤァ、ネンネンヤァ」を繰り返していた。そして後には、ぐずる妹をもてあまして、自分の方がしくしく泣きながら、イズメの傍で眠ってしまった。

 すると兄が来て、私の頭を蹴とばした。蹴とばされて跳ね起きると、今度は足の親指で私のお尻をギュッと抓った。それでも私は、声を上げて泣くことはしなかったし、誰にも告げなかった。母は、生傷の絶えない私の体に気づいている筈だが、何も言わなかった。

「幸一つぁん、ほんなにキクちゃんをいじめたらあかんげの。いこう<大きく>なったら幸一つぁんの嫁はんになる子ォやろ」

 近所の人が言っていたが私には何のことか分からなかった。

「キクはうちの子やないんやぞッ。お前にはお父がないんやぞッ」

   ある日、兄から言われたときは驚き、泣きながら母に尋ねに行った。

「おっ母、ボ<幼児語で、自分のこと>は、ここのうちの子やないんか。お父はボのお父やないんか。兄(あん)ちゃんがほう言うて、ボをいじめてばっかしいるんや」

「ほんなこっ言うもんやないッ」

 流し場の隅で紙を漉いていた母は、そう言っただけで、紙を漉き続けていた。

  私は兄が怖かった。父が怖かった。そして母も怖かった。

  母は、赤ん坊の私を連れて、山一つ隔てた隣村から、母より十五歳も年上の父に、私より十歳年上の男の子のいる家へ、将来はその子と私を娶(めあわ)す約束で嫁いで来たのだった。その上、母より二歳年上の出戻りの小姑もいた。その人は、赤ん坊のとき囲炉裏の中へ顔を突っ込んだという火傷のあとがあった。私を多少とも庇ってくれたのは「叔母ちゃん」と呼んでいたその人だけだった。
  
 母は父の機嫌をとり、兄を必要以上にかまい、学校へ行く着衣の世話をし、母の前へ投げ出した足に足袋まで履かせていた。その傍らで、まだ四、五歳の私が、妹の世話をしたり、川へおしめを洗いに行かされたりした。

 兄は学校へ行き、大人はそれぞれ仕事につくと、私は妹のお守りをしながら、オイエという囲炉裏のある板の間の雑巾がけをしなければならなかった。そこは朝焚いた囲炉裏の灰が飛んで真っ白になっていた。

「ほんな拭き方であくかァッ。もっと雑巾を堅(かと)う絞って拭けッ」

 私が一生懸命拭いた所を、母は紙漉き場から透かし見しながら怒鳴った。

 私はいつもしくしくしながら、叱られないように気をつかって、妹が眠ると、テゴ<藁で編んだ籠>を持って裏山へ杉葉を拾いに行ったり、家の周りの草むしりをしていた。だが、誰からも認めてはもらえなかった。父に抱かれたり負われたりしてもらえる筈はなく、せめて、夜になってからでも、母に抱きしめてもらいたかった。が、それどころか、何かのたびに父や兄の前で、これ見よがしに私を平手打ちしながら言った。今も忘れてはいない。「お前んたなもんは、すずってしまえ<死んでしまえ>」

 誰も止めるものはなく、叔母はおろおろしているだけで、父と兄の眼が、私と母を睨(ね)めつけていた。

 私は、妹のお守りをするのに命がけだった。ある日、よちよち歩きの妹を連れて外へ出たところ、妹は川べりへ行き過ぎて、あっという間に落ち込んだ。そのとき、私は何と思って川へ飛び込んだことか。二人がずぶ濡れになって帰って来ると、私の膝から血が流れているのにはかまわず、父も母も怒鳴った。

「ちゃんと手ィ引いてやらんさけィやッ」

 またあるときは、次の妹が赤ん坊だったから、私はまだ六歳ごろだったと思う。

その赤ん坊を帯をかけずに手で負うて外へ出た。赤ん坊は喜んで手を振り、体を動かしたとたん、私の支える力が及ばず、地面の上へ落としてしまった。私は自分が悪かったと思う自責の念と、両親の怒声で、金縛りにあったように体が硬直してしまった。謝ろうと思っても口が利けず声も出なかった。しかし意識はあった。

「姉さん、キクエさん動(いの)かんようになったげの。どうなったんやろ」

 叔母が、母に言っていた。

「放っといとくれ。こんな奴は死んでくれた方がいいんじゃ」

 私は悲しかった。母までも私を憎んでいると思った。

 村には、昔、天狗が山から出て来て子供を攫(さら)って行ったとという言い伝えがあった(子どもへの脅しだったと思う)。私が杉葉を拾いに行く裏山は、村の半分は見渡せた。が、その山の奥の方から天狗さんが出て来ないだろうか。天狗さんが出て来て、私をどこかへ連れて行ってくれないだろうか。この体が消えてなくなって欲しいとさえ思った。

 五・六歳にもなると、家の周りや紙干場の草むしりは、妹が眠っている間の私の仕事になっていた。私は草むしりは好きだった。それは、兄はそこまで私をいじめに来なかったし、這いつくばって草をむしりながら、ときどき青い空を見上げることが出来た。

 山の中の山に囲まれた村の空は広くはなかったけれど、いろいろに変わっていく雲の形が面白かった。

「あの雲は、お父(とう)が怒っているときの顔のようやな」と思いながら、しばらく草をむしっている間に、その雲は兄が父に叱られてむくれているときのように変わっていた。

 いつもしくしくしながら下を向き、うわ目づかいに人の顔色を窺っている私が、青い空を見上げることの出来る救いのひとときであった。

 また、草むしりをしていると、たまに訪ねて来る母の実家の祖母を、誰よりも先に見つけることが出来た。この祖母だけが私をいとおしんでくれていて、不憫(ふびん)でたまらないというようすだった。

 祖母は、二人の息子を東京へ丁稚奉公に出して、自分は産婆<助産婦>をしながら一人で住んでいた。顔立ちは整い、歯はお歯黒で美しく光っていたが、疱瘡を患ったあとが顔一面に残っていた。その顔を夏は日よけ笠で覆い、冬は紫のお高祖頭巾で包み、ケットをマントのようにして着ていた。夏冬通して草鞋履きだった。

 祖母の草鞋の足音が聞こえると嬉しかった。訴えたいものが込み上げてきて、それが訴えられなくて、胸の奥がキューンと痛んだ。抱きしめて欲しかった。祖母が来たからといって、一緒に家の中へ入って行かなかった。

「キクに貯金しといてやれ」

 祖母は来るたびに、父や兄に知られぬように、なにがしかを母に渡していた。それが出来ないときは、私に五十銭銀貨を握らせた。

「おっ母に貯金してもろとけや」

 私は、それを握りしめながら、帰って行く祖母について行きたい衝動にかられ、言いようのない寂しさに耐えていた。

 そればかりか、私名義の貯金通帳を見ることは出来なかった。

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「生かされて生き万緑の中に老ゆ」目次へ戻る