満州開拓団

「満州黒竜江省(現中国黒竜江省)甘南県拉哈(ラハ)弁事所気付第一次興亜義勇隊開拓団」というのが、私の住所になった。

 隊員三十人ほどの中へ、私と大坂さん、漆崎さん、本部勤務の西沢さんの四人が、大陸の花嫁となって入って行った。大坂さんや漆崎さんは、夫に甘え、それを受け入れ、仲の良い夫婦だった。それを見ながら、私はまだ夫に甘えることは出来ず、月日をかけて夫婦の愛を育てていきたいと考えていた。

 チチハルから、二百キロ奥地。大興安嶺がはるか西北にうす墨色に連なって見えるほかは、樹木一本とてない、地平線を見はるかす広野だった。そうした中に、福井県出身を主とする第九次興亜開拓団と第一次興亜義勇隊開拓団がともにする本部があり、そこを中心に五キロほどおきに、二所帯一棟の団員宿舎が十メートルほどの間隔で、十棟ずつ並んで建っていた。そして、そのところどころに、現地の人の住んでいる××屯、△△屯という泥で固めたような家、四、五戸がくっついている集落があった。本部はそうした所を買収したものらしかったが、門もあり、壕で囲まれていた。

 第九次開拓団は、福井、愛知、山口、福岡、熊本、茨城、福島、山形から成り、福島と山形は二箇団ずつあって、その十箇団が拉哈弁事所気付になっていた。これらの団は、昭和十四年二月に先遣隊が入ったという。

 第一次義勇隊は、昭和十三年に、十三歳から十七歳ぐらいの少年を募集したものである。彼らは、内原訓練所を降り出しに、現地である満州の勃利(ボツリ)、紫陽(シヨウ)などの訓練所を経て、昭和十六年、それぞれの県に分かれ、福井県出身者は、第九次興亜開拓団へ送られて来たのだった。

 内原訓練所入所当時は、福井県の者だけでも百人以上いたというが、落伍する者や親に連れ戻される者のほか、年長者は昭和十六、七年に徴兵検査で兵隊にとられたりして、三十人ほどになっていた。

 彼らは、そこを生涯の地と定め、自らの手で住む所を作り上げた。興安嶺へ伐採に行き、煉瓦を焼き、土を捏ねてオンドルを作り、野草で屋根を葺き、煉瓦を積み上げた煙突からオンドルの煙が出る。開拓団の家らしいものを十棟、東西に並べて建てた。それに平行して馬小屋も建てた。現地の満州人に見習って深い井戸も三か所掘った。便所は、私たち女性が来るというので、俄作りに穴を掘り、板を二枚渡し、周りと屋根は野草で囲み、出入り口には筵を下げたものだった。

 肥沃な大地だったが、四月は解氷期、土は粘土状で靴にくっつき、それに枯れ草や麦藁がくっつくので、ときどき掻き落とさなければ歩けなかった。雨期もそうだった。

 しかし、六月の草原には、すみれ、たんぽぽ、桔梗、芍薬、そのほか名も知らぬ花が咲き競った。また、まだ新しい義勇隊の家では、内壁から草や麦の芽が伸びてきたのには驚いた。

 五月は播種期である。男たちは馬にリージャン<犂(すき)>を引かせて耕して行く。黒々と掘り起こされて行く畝の上へ、穀物の種を入れた細長い袋を背負い、その袋の先へ筒を差し込んでポンポンとたたいて行くと、種は具合よくこぼれていった。私たち女性三人を交えて、人と馬とが何列も並んで行く。八百メートルも千メートルもある畝だった。

 馬の嘶き、「イウイウイ、チョッチョッチョッ」と、満馬を追う声。ポンポンとたたく音。それは、狭い日本では到底味わえない。身も心も、広がっていくようだった」。

 播種が終わると、数日は休み、二十キロほど離れた平陽鎮へ買い物に行ったり、本部へ物資を調達に行ったり。満馬二頭引きの大車に、三組の男女が乗って「イウイウイ、チョッチョッ」と、満州人集落にさしかかると、纏足(てんそく)<足が大きくならないように、子どものころから布できつく巻いておく>の女たちが、よちよちと出て来て「来々(らいらい)、来々」と手招きする。馴染みになっている男たちは、自分の花嫁を紹介したくて入って行った。

 私たちは、日本ではもう着ることが禁じられていた袂の着物を着て、お太鼓を結んでいた。女たちは「ハオカン、ハオカン(きれいだ)」と言いながら、和服や帯を撫で回した。

 そして、その日のあり合わせの食べ物を出してもてなす。オンドルの焚き口に据えてある大きな釜で、主食の栗や高梁、包米(ポーミー)<とうもろこし>を炊き、それを引き揚げたあと、肉と野菜を岩塩だけで味付けして、炒めたり炊いたり。またそれを引き揚げたあとで、湯を沸かす。一つのテーブルが、丸ごとの豚を捌いたり野菜を切るまな板になり、麺を捏ねる台にもなり、食卓にもなる、現地農民の合理的な生活。

 真っ黒に蝿がたかれば、おいしいからたかるのだという。水を極度に節約して食べ物を作る彼らを見て、口にするのはためらわれたが、そのうち慣れていった。こうした現地の人たちは、日本人の言うことは少々無理なことでも従い、特に私たち女性を歓迎し、優遇した。日本帝国を信じきっていた私は、故郷の小学校や、私の渡満に奔走された校長先生に、大御稜威(おおみいつ)は北満の奥地にまで届いているとか、日本人に生まれたことを誇りにしているとか、せっせと手紙を出した。

 雨期の間は家にこもっていた。男たちは、花嫁のいる班へ手分けして入り込み、私たちを冷やかしたり、出した物は先を争って食べてしまい、夫は満足気にそれに乗じていた。

 雨期が終わると日照時間は長く、陰一つない大地は、かんかん照りの夏。作物は、日に二十センチも三十センチも伸びた。それと同時に、除草をしなければならない。チュートという除草鍬を持って何人もが並んで、長い畝を除草して行く。この時季に、馬草も刈っておかなければならなかった。

 地平線に陽が昇るころ、朝礼で皇居遥拝をし、武運長久を祈り、義勇軍綱領を唱和した。

「我等義勇軍ハ天祖ノ宏謨ヲ奉ジ心ヲ一ニシテ追進し身ヲ満州建国ノ聖業ニ捧ゲ神明ニ誓ッテ天王陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス」

 夜の短い夏は、昼食後に三時間ほど昼寝をする。私たち女性は、その間に洗濯したり、班の炊事をしておいたり。夫婦だけの炊事ではなく、食事も二人だけでしたことはない。私たちは大陸の花嫁であった。

 開け放した家の中へ、放牧の馬や牛が顔を覗かせたり、鶏が飛び込んで来たり、豚が鍋の蓋を咥えて走ったり、それを追うたり追いかけたり。遠くで狼が吠えれば、犬の遠吠え。そんな日々だった。

 八月の末には、もう霜がおりる。八月から九月初めにかけて、収穫しなければならない。大麦、小麦、燕麦、大豆、高梁、とうもろこし、じゃが芋などなどの穀類や野菜が、短い夏の間に立派に稔った。

 その忙しい仲秋のころ、太陽が大きく真っ赤に、西の地平線に沈もうとしていると同時に、東の地平線には、大きな月が昇ってくる。空の狭い山村に育った私は、働き疲れた馬に水を与えながら、しばしこの光景に見惚れていた。

 そして冬、野菜は地下に穴蔵を掘って貯蔵する。自然乾燥した穀類は、凍った地の上へ広げて実をたたき出し、寒風を利用して風選する。十人ほどの者が輪になって、長い棒を振り回しながら調子を合わせて、地面に広げた穀物をたたきながら回る。すると実は、殻から弾き出る。それを風を利用して掬い飛ばすと、殻は飛んで実は下へ落ちる。この作業を最近、テレビの『大黄河』で見て、懐かしく思い出したが、悠長に見えて、なかなかの重労働である。

 三寒四温の冬。四温の日でも零下二十度。三寒になると、四十度にも下がる。天と地が一面の灰色になって、灰のような雪が横なぐりに吹雪く。防寒服、防寒帽、防寒靴に身を固めていても、吐く息が凍り、眼が凍り、帽子にも睫にも氷柱が出来、靴は地に凍りつく。井戸端はこぼれた水が氷の山になり、便所の中まで凍って山になるので、ときどきつるはしで崩さなければならなかった。

 まだ新しい義勇隊の家は、十分にオンドルが利かなくて、朝起きてみるとふとんに霜柱が立っていた。汲んでおいた水は氷塊になり、醤油や油までも凍った。昼は短く夜は長く、電灯はなく、ランプのホヤの掃除も日課の一つになり、暗いランプの下で繕い物をしたり、故郷へ手紙を書いたりした。

 男たちは、やはり花嫁のいる班へ押しかけてきて、そのために作っておくお汁粉を食べながら、私たちに故郷の話を聞いたり、自分の村の自慢話をしたりして、長い夜を過ごした。四温の日はオンドルに焚く燃料の枯れ草を刈りに野へ出て行く。一年分の燃料を冬の間に刈り取り、山のように積んでおく。コンロで熾した火の粉が飛んで、またたく間に、その山が燃えてしまったこともある。

 私たちは、近くに住む姑娘(クーニャン)と朋友(ポンユー)になり、招いたり招かれたり、美しい刺しゅうで飾った靴を作ってもらったり、帽子を作ってあげたり、姑娘の衣装を借りて、一緒に写真を撮ったこともあった。

 そして、漆崎さんは、翌年一月早々が出産予定日、大坂さんも二月が予定日、私も本部の西沢さんも、そのころ小さな命を宿していた。また、支部長の内田さんは、医者のいない本部へ来ておられた看護婦さんと結婚することになった。義勇隊はおめでたずくめ。その義勇隊から、私たち夫婦は年が明けると、団の農場で農耕と畜産の指導を受けることになっていた。将来は、一所帯に二十町歩の耕地が与えられる。一年間の研修を受けて、義勇隊開拓地へ帰ったらーー。私の夢は広がり、昭和十八年は暮れていった。

 ラジオもなく新聞も取らず、戦争は勝つものと信じていた。翌十九年、召集令状は容赦なく男たちを奪って行き、女と赤ん坊だけが取り残される羽目になろうとは、誰も夢にも思ってはいなかった。

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